「無駄では終わらない仕事」
Ⅰコリント3:12-15
本日の箇所で、パウロは、私たちおのおのの仕事がやがてかの日に明るみに出されるんだと語りました。そして、その仕事がやがて来る日に燃え尽きてしまうこともあると語ったのです。せっかくの働きが全く無駄に終わってしまうのです。その仕事について考えながら、もし自分がそんな仕事に携わるとするなら、空しいな、しんどいな、と思いました。そんな中、考えさせられたのは、「無駄」ということでした。無駄な仕事とは何でしょうか。皆さんはどう思われるでしょう。色々なことが言えるかも知れませんが、私の中で心に迫ってきた聖書の記述がありました。創世記11:1-9に記されている「バベルの塔」の記述です。
かつて東の方から移動してきた人々がシンアルの地に平野を見つけ、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と言って、塔を建設し始めました。しかし、神様が彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまったため、人々はこの町の建設をやめたのでした。このバベルの塔は、壊されたのではありませんでした。途中まで建設途中だった塔をそれ以上建てるのをやめたのです。塔は使われることもないまま、廃墟となりました。これ以上の無駄なことはないのではないかと思います。
無駄な仕事について、「バベルの塔」の記述を思い浮かべながら、「それでは、無駄で終わらない仕事とは何だろう」と思いました。このことについても色々なことが言えるのかも知れませんが、私の中で思い浮かべたのは、ヨハネ6:1-13に記されている「五つのパンと二匹の魚」の記述でした。五つのパンと二匹の魚を差し出したのは、一人の少年でした。この少年はどんな思いで、五つのパンと二匹の魚を差し出したのでしょう。普通に考えれば、「自分の差し出すものなんて、役に立たないし、全く無駄だ」と思えてならないのではないかと思います。しかし、この少年の献げ物は無駄で終わりませんでした。その場所にいた五千人以上の人を救うことになったのです。なぜ、この少年の働きは無駄で終わらなかったのでしょう。それは何より、イエス様がこの少年の献げ物を用いてくださったからでした。少年の献げたもの自体は、ほんのわずかな限界あるものでしたが、その働きをイエス様が祝福し、用いてくださった時、無駄で終わらなかったのです。
この「五つのパンと二匹の魚」と「バベルの塔」は、非常に対照的な話ではないかと思います。そして、私たちに大切なことを語っているのではないでしょうか。主の言葉に耳を閉ざし、反発し、自分たちの思いでバベルの塔を建設しようとしたバベルの塔の働きは、たくさんの人たちで、その働きをなそうとしたにも関わらず、結局、途中で頓挫してしまいました。これに対し、少年はたった一人、自分のもてるわずかなものしか献げることができなかったのですが、主がその働きを用いてくださった時、無駄では終わりませんでした。このように、聖書が語る無駄で終わらない仕事は、イエス・キリストという土台に立ってなされていく仕事なのだと思います。私たちがイエス・キリストという土台に立って仕事をなしていく時、その仕事は確かなものとされていくのです。イエス様が整えてくださるのです。