「あなたがたは知らないのですか」

Ⅰコリント3:16-23

本日の箇所を読みながら、いくつかの言葉が心に留まりました。まず「あなたがたは知らないのですか」(3:16)という言葉が心に留まりました。注解書には、このような言い方をしているということは、本来ならコリント教会の人たちが常識的に分かっているはずのことを「こんな当たり前のこともあなたたちは知らないのですか、忘れてしまったのですか」と訴えたいからなんだということが書かれていました。そのようにコリント教会の人たちは、それぞれ自分たちのことを主張し、自分たちこそ正しい、分かっているんだと考えていましたが、実際には、信仰者として常識的に分かっているはずのこと、当たり前のこと、初歩的なこと、しかし、大切なことが分からなくなっていたのです。
加えて、もう一つ、心に留まったのが、「だれも自分を欺いてはなりません」(3:18)という言葉でした。このような言い方をしているということは、コリント教会の人たちが自分で自分を欺いていたということなのだと思います。どんなふうに欺いているかと言いますと、自分たちがこの世で知恵のある者だと考えていたのです。コリント教会の人たちは、自分たちがそんなふうに自分を欺いているなんて、全く考えていなかったかも知れません。あるいは、もしかして、本当は自分の中にある矛盾や限界や間違いに気づきながら誤魔化していたのかも知れません。いずれにしても「あなたたちは自分たちがこの世で知恵があると主張しているかも知れないけど、それは自分自身を欺いているんだ」と指摘されているのです。
もう一つ注目したいのが、「だれも人間を誇ってはなりません」(3:21)という言葉です。このような言い方をしているということは、コリント教会の人たちは人間を誇っていたのだと思います。「わたしはパウロにつく」という人たちは、パウロを誇っていたのだと思いますし、「わたしはアポロに」という人たちは、アポロを誇っていたのだと思います。また、そんなふうにパウロやアポロについている自分たちのことも誇っていたのではないでしょうか。そんな彼らというのは、人間を誇れば誇るほど、神様のこと、イエス様のことが見えなくなっていったのではないかと思います。
これらの言葉一つ一つが自分自身に迫ってくるように思えました。本日の御言葉はそのまま、時々の自分自身に問いかけられていることなんじゃないかと思うのです。そんなことを思いながら、何より心に迫ってきたのが、「愚かな者になりなさい」(3:18)という言葉でした。愚かになるということは、どういうことでしょう。何より思うのは、自分は色々分かっているつもりでありながら、いつの間にか、当たり前のことさえ分からなくなってしまっている自分を認めるということではないでしょうか。あるいは、変に意地を張って、自分を誤魔化したり、自分を欺いたりすることを辞めることなのではないでしょうか。そして、いつの間にか、目の前の人間ばかりに注目し、人間を誇るようになり、神様のこと、イエス様のことが見えなくなっている自分を認めることなのではないかと思います。その時、私たちは本当に大切なことに気づかされていくことがあるのではないかと思うのです。

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