本日のローズンゲンの御言葉です。
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。詩編7:2
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。ヨハネ17:15
先週の木曜日、九州バプテスト神学校での働きを終えた後、天神のKBCシネマで映画を観ました。
映画が終わった後、夜風が心地よかったので、家まで歩いて帰ることにしました。
すでに10時を過ぎていたので、今日中に帰れるだろうかと思ったりしたのですが、その日はウォーキングもしていなかったので、思い切って歩いて帰りました。ただ多少疲れていたので、自分なりにルールを決めました。それは、「信号が赤になりそうでも急ぐことはしない」ということでした。
いつもは信号が赤になりそうになると、間に合わせるために小走りになることが多いです。
でも、今回はそういうことを止めようと思いました。信号が赤になりそうでも、ペースを変えずに歩いて、赤になったら落ち着いて信号を待とう…。もうだいぶ遅いけれど、ここまで遅くなったんだから、もう急がなくたっていいじゃないか…。そんなふうに思ったのです。結果、信号の度に、赤で待たされることになりました。
信号で待たされる度に「また赤か」と思ったのですが、しばらく歩いていると、ふと気づかされることがありました。それは、信号で待つたびに、自分が休憩できているということでした。
信号ですることもないので、自然に鞄を置いたり、息を整えたり、軽く柔軟運動をしたりしていて、それが自分にとっての最適な休憩時間になっていたのです。しかも、その休憩が自分にとってほどよいタイミングで与えられていることに気づかされました。結果、これまでも天神から歩いて帰ったことが何度かあるのですが、いつもより全然きつく感じませんでした。そんな経験をさせられながら、「この信号待ちの時間は、自分にとって必要な時間なのかも知れないな」と思いました。そんなことを思いながら、思ったのは、日々の歩みの中でも、同じようなことがあるかも知れないということでした。日々の歩みの中でも、つい心がせわしくなって、目の前に赤信号になりつつあるような状況があると、すぐに駆け出してしまう自分がいるように思います。そんなふうにしながら、いつの間にか、どんどん早歩きになってしまっている自分はいないだろうかと思いました。そんなふうに早歩きしていても、そんなに早く着くわけでもないのに、いつの間にか、自分でそうしているのです。そんな自分を思いながら、赤信号をちゃんと見て、その信号に立ち止まることの大切さを教えられたように思いました。
本日の御言葉には、次のように記されています。
「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。」
神様は私たちにとっての避けどころです。私たちを守り、支え、救ってくださる方です。
その神様は時に、私たちを「赤信号で待ちなさい」と示されることもあるんじゃないかと思います。
その赤信号で待つ経験を通して、私たちを整え、休ませ、新しい歩みに出ていく備えをさせてくださるのです。私たちの必要な時に、そのような時を示されることがあるんじゃないかと思いました。
その日の帰り道、私が信号で止まっていると、サラリーマンが赤信号を無視して、自転車を飛ばしていたりもしました。夜中の道路でしたから、車通りも少なかったですし、その人は一刻も早く家に帰りたかったのかも知れないと思います。
その姿を見ながら、「あれが時々の自分の姿かも知れないな」と思いながら、「赤信号で待っていることもそんなに悪くないなぁ」と思いました。(鈴木牧人)
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