「なかったような顔をして」

Ⅰコリント4:6-8

本日の箇所を読んで印象的だったのは、4:7後半の「もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」という言葉です。コリント教会の人たちは、否定できない事柄、無視できない事柄があるのに、そういう現実を見ようとせず、まるでそういうことが「なかったような顔をして」、すっかり慢心し、満足し、浮かれて、自分たちがまるで王様にでもなっているかのように高ぶっていたのでした。そんなコリント教会の実情とはどんなものだったのでしょう。私たちはこれまでコリント教会の実情をパウロの手紙から読んできましたが、コリント教会は本当に問題だらけでした。教会内はバラバラで、互いに自分勝手なことばかりをしていました。結果、様々な問題が起こっていたのです。そんな状況の中、パウロは、コリント教会の人たちに、3:18で「自分を欺いてはいけない」と語ったり、本日の箇所では、勘違いして浮かれたり、高ぶったりしてはいけない、と語っているのです。そんなコリント教会の人たちの姿を見ながら、私たちはどうだろうと思いました。私たちも時にそういう弱さというか、どうしようもない部分があるのではないかと思います。
私たちの教会では、毎年、夏に平和祈念礼拝を行なっています。青年会と少年少女会の皆さんが中心となって、平和祈念礼拝を準備してくれています。先日、今年度の平和祈念礼拝のための話し合いがあり、テーマをどうするのかということになりました。色々と話し合った結果、今年度、取り上げるテーマが、原発について考えることになりました。原発について考える時、本日のメッセージが心に迫ってきます。私たちは見たくないものに目を背けてしまう…。そうする一方で、いつの間にか、問題を忘れて、まるでなかったかのように思ってしまう…。依然として、無視できない問題があるのに、そういうことに目を向けようとしない…。それどころか、そういうことが「なかったような顔をして」慢心したり、浮かれてしまう…。そんな自分たちに満足し、勘違いし、浮かれて、慢心してしまう…。原発を取り囲む状況には、まさにそういう現実があるのではないでしょうか。
そんなことを思いながら、本日の箇所のコリント教会の人たちの姿というのは、そのまま、現代の私たち自身の姿だったりするのではないかと思いました。原発の課題だけでなく、私たちは、私たちを取り囲む様々な課題に対して、「なかったような顔をして」いることはないでしょうか。そして、王様のように高ぶっていることはないでしょうか。しかし、いくら「なかったような顔をして」いても、課題がなくなったわけではないですし、「なかったような顔」をすることはできないのです。私たちはそのように目の前の現実にきちんと向き合わなければならないことがあるのです。それはしんどいことかも知れません。しかし、その課題にきちんと向き合う時、私たちは出会っていくのだと思います。たとえ大水がわたしたちを押し流そうとしたとしても、私たちと変わらず共にいて、私たちの味方であり続けてくださる十字架のイエス様に出会っていくのです。そのイエス様を見上げていくこと、私たちの信仰の原点であり、そこに私たちの希望と救いがあるのだと思います。

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