「優しい言葉」

Ⅰコリント4:9-13

本日の箇所を読む時、パウロが歩んできた福音宣教の歩みというのは、苦労の連続だったんだと痛感します。しかし、パウロはそんな歩みを誇りとしていましたし、その歩みの中で喜びをも見いだしていたのだと思うのです。そんなパウロの姿を思う時、改めて、パウロが大切にしていたものや見ていたものというのは、この世の価値観と違うんだなと思います。そして、そのことこそ、パウロがコリント教会の人たちに伝えたかったことの一つだったのではないでしょうか。コリント教会の人たちは、この世の価値観に流され、この世の成功を求めていました。彼らは一生懸命、知恵を求め、しるしを求め、他の人より、立派な人になろうと努めていました。そんなコリント教会の人たちに対して、パウロは繰り返し「愚かなもの」について語ります。十字架の言葉も、福音宣教も、神が人々になそうとした救いの計画も、この世的に見れば、「愚かなもの」にしか見えなかったんだということを語るのです。しかし、決してそうではない…。十字架の言葉は、神様のことを知らない人たちにとっては、愚かなものにしか思えないかも知れないけれど、神様を信じ、神様に救われた者たちにとっては神の力なんだと語ったのです。そのように、私たち信仰者たちの価値観は、この世の価値観と違うんだということを繰り返し語ったのです。そして、そのように価値観が変えられていくことが、私たちにとっての福音となるということがあるのではないでしょうか。
大江健三郎さんが以前、講演の中で、こんなことをおっしゃったそうです。
「優しさについては、色々言えるかも知れないが、確かに言えることは、今の時代、人を優しくさせないものが満ちているということだ。そんな時代に人を優しくさせなくしているものと戦いながら、その一つ一つを取り除いていく人が、本当の優しい人ではないだろうか。」
本日の箇所でパウロは「ののしられては優しい言葉を返しています」(4:13)語りました。この御言葉を読みながら、大江健三郎さんの言葉を思い起こしました。大江健三郎さんのおっしゃる通り、今の時代は人を優しくさせないものが満ちています。すぐに人と人とを比較したり、相手を裁いたり、ディスったり、ののしったりすることがあるのではないでしょうか。そんな時代の中にあって、「優しい言葉を返す」とはどういうことでしょう。この世の価値観に縛られ、中途半端にエリート意識やコンプレックスを抱えていたりする私たちが、その価値観に砕かれ、癒されながら、そういう思いから解放されていくこと…。そのような福音のメッセージとの出会いこそ、その人にとって「優しい言葉」となっていくのではないでしょうか。
実際、私たちの周りには、そのような言葉との出会いを必要としている人がいるんじゃないかと思います。私たち一人一人がまずイエス様との出会いを通して、価値観を変えられながら、その私たちが今度は、イその福音の言葉を私たちの隣りにいる誰かに伝えることができたらと思います。

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