本日のローズンゲンの御言葉です。

来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。エレミヤ31:33
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。2コリント3:3
先日、仙台から福岡に来られたK牧師を尋ねました。
K牧師には、これまで様々な形でお世話になってきました。そんな中、久しぶりにお会いして、色々な話をしたのですが、その中でK牧師のお孫さんが神学校に入りたいと思っているという話を聞きました。そこで、お孫さんとも話をし、西南学院大学の神学部のことだったり、九州バプテスト 神学校のことなどを話しました。私がそのお孫さんと話していると、K牧師がそのお孫さんにこんなことをおっしゃっていました。
「神学を学ぶってことはね。突き詰めて言えば、信仰の反省を学ぶってことなんだよ。あまり難しいことを考えず、そのことを踏まえて、神学校のことを考えていったらいいよ。」
K牧師の言葉を聞きながら、本当にそうだなと思いました。
神学を学ぶってことは、何か難しいことをあれこれ考えることが大事なのではないのだと思います。
聖書の歴史を通し、教会の歴史を通し、これまでの歩みの中で経験してきた様々な痛みや失敗と向き合い、反省を込めて「もうこのような歩みを繰り返さないように」との祈りを込めて紡がれてきた信仰の言葉を学んでいく…。それが神学の一番の中心なのだと思います。
K牧師の言葉を聞きながら、私自身、改めてそのことをわきまえていたいなと思いました。
本日の御言葉には、次のように記されています。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」
この言葉を読みながら、「石の板ではなく人の心の板に」という言葉が心に残りました。
この聖書の御言葉を、血肉の通っていないような単なる石の板に書かれた言葉ではなく、あなたがた自身の心にきちんと刻まれた言葉として受け止めなさいということが書かれているのです。
この御言葉を読みながら、K牧師の言葉を思い起こしました。聖書の御言葉も、神学の学びも、単なる学問としてだけでなく、様々な痛みや涙、祈りの中で紡がれてきた信仰の言葉として聞いていきたいと思います。その時、それらの言葉が石に書かれた言葉ではなく、心の板に書かれた言葉とされていくんじゃないかと思うのです。  (鈴木牧人)

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