「わたしに倣う者になりなさい」

Ⅰコリント4:14-21

 私たちは誰かに対して、「あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」(4:16)と語ったことがあるでしょうか。中々言える言葉ではないんじゃないかと思います。パウロは何でこんなことを語ったのでしょう。色々なことが言えるのかも知れません。ただ私の個人的な受け止め方として思うことがあります。パウロがこんな言い方をしているのは、それほどまでに何とかして、コリント教会の人たちから、自分のことを信頼してもらいたいと思いがあったからなんじゃないでしょうか。もしパウロに対して不信感を持っていたら、パウロに倣うなんてことはできないのだと思うのです。
自分のことを考えても思うのです。私は自分の言っていることや、していることが100%正しいなどと思うことはありません。しかし、いざ何かの責任ある働きを任された時に、「私は間違っているかも知れません」とか、「私には分かりません」ということばかり言っていたら、「この人の言っていることを聞いていて大丈夫かな?」と心配になるのではないでしょうか。ですから、責任ある働きをしていく時には、あえて「私のことを信頼して任せてほしい」とか「指示に従ってほしい」と言うことがあります。パウロが本日の箇所で、「わたしに倣いなさい」と言っているのは、そういうことなんじゃないかと思うのです。パウロは手紙の中で、コリント教会の人たちに対して、厳しいことも語りましたし、突っ込んで様々な問題についても意見を述べました。でも、それらはすべて彼らコリント教会の人たちのためでした。しかし、場合によっては、コリント教会の人たちがパウロから色々言われて、パウロに対して心閉ざしてしまうことも考えられました。そうなってしまえば、パウロが何を語ってもコリント教会の人たちには届きませんでした。このため、パウロは自分に信頼してもらいたいという思いの中、「わたしに倣いなさい」と語ったんじゃないかと思うのです。
加えて思うのは、「パウロに倣う」ということは、「パウロになる」ことではないということです。たとえコリント教会の人たちが「パウロ先生のようになろう」と思ったとしても、そうなれない自分を見せつけられるのではないでしょうか。パウロはそんなことを求めてはいないと思うのです。聖書には「キリストに倣う」(Ⅰコリント11:1)という言い方もありますが、これは私たちがキリストになることではないのだと思います。そうではなくて、私たちがパウロの歩んだ生き方に倣って、その生き方をたどるように歩んでいこうと努めていくことが、パウロに倣うということなのではないでしょうか。そして、そういう歩みをしていこうとする時、私たちにはきっと「そこから見えてくる景色」というものがあるのではないかと思うのです。具体的にパウロの歩みに倣って、その生き方をたどっていこうとしていく時、パウロがどんなことを思い、どんな苦悩を通らされてきたのか、あるいは、その中でどういう信仰の決断や、愛の思いでもって一つ一つの事柄と関わろうとしてきたのかということが、実際に自分自身のこととして身をもって分かってくることがあるのではないかと思うのです。その時、知ることができる信仰の事柄があるのではないかと思うのです。

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