「新しい練り粉のまま」
Ⅰコリント5:1-8
本日の箇所には、コリント教会で起こった倫理的な不祥事について言及されています。具体的に言うなら、「ある人が父の妻をわがものとしている」(5:1)という不祥事でした。このようなことは当時、ユダヤ人たちの法律でも、ローマの法律でも禁じられていることでした。ですから、パウロはあなたたちの間にある問題は「異邦人の間にもないほど」の問題だと語ったのです。この問題に対してのパウロの言葉は、大変厳しいものでした。パウロはどんな思いでこれらの言葉を語ったのでしょう。本日の箇所で言及されている問題について考えながら、「もし私がこの問題の渦中のコリント教会にいたらどうだろう?」と思いました。以前、聖書の分かち合いで話し合っていた時、こんなことがありました。聖書の中で罪を犯した人に対して、「これはこういう問題があるんじゃないか」と話し合っていた時、ある方がこんなことを言いました。「確かに、問題はあるかも知れないけれど、この人だって悪い人じゃなかったんじゃないでしょうか。」すると、みんなでだんだんと「そうだよね」という話になりました。そのような話になっていったのは、罪を犯した人の気持ちになって、その人の思いをくみ取ろうとしたからなのだと思います。ただ、そういうスタンスで、私たちが本日の問題に向き合ったらどうでしょう。「この人が犯した過ちは問題かも知れない。だけど、この人のことを知っているけれど、悪い人じゃないんだよね」と考えたりしないだろうかと思うのです。そして、そういう思いの中で、この人の犯した問題に対し、あやふやな対応になってしまってしまうことがあるかも知れないと思うのです。コリント教会の人たちの中にもそういうところがあったんじゃないでしょうか。
私たちはしばしば、そういう対応、そういうジャッジをしてしまうことがないだろうかと思います。本来、問われていることは、「その人がしたことが正しいのか、間違っているのか」ということであるはずなのに、いつの間にか「その人が良い人か、悪い人か」ということとごっちゃになってしまうのです。そういうことがごっちゃになってしまうと、問題の論点がおかしくなってしまうことがあるかも知れないと思うのです。その人のしたことが問題だったのに、いつの間にか「あの人だって、悪い人じゃないんだよ」という話になって、問題がうやむやになってしまうことがあるかも知れません。あるいは、その逆もあるかも知れません。その人が何か一つの失敗をすると、その人がこれまでしてきたことを一切否定するような批判や非難へと発展していくこともあるのではないかと思うのです。私たちはともするとそういうふうに向かってしまうことがあるのではないかと思います。その両方とも、問題の本質を取り違えてしまっているんじゃないでしょうか。
聖書は決して、罪の問題というものをどうでもいいとは語りません。ダメなものはダメだと言いますし、罪は罪だと語ります。でも、その一方で、そのような過ちや失敗、罪を犯しうる私たちを、神様はそれでも見捨てずに愛し、赦してくださっているのだと語るのです。それが聖書の大切なメッセージなのだということを覚えていきたいと思います。