本日のローズンゲンの御言葉です。
万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢な者に/すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――       イザヤ2:12
悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。ルカ3:8
本日の箇所には、次のように記されています。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」
この御言葉は、バプテスマのヨハネがバプテスマを授けてもらいに来た群衆に対して語った言葉です。
本日の箇所を読みながら、大変厳しい言葉だなと思いました。
バプテスマのヨハネは、この時、この言葉の他にも「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」「言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と語ったことが記されています。聞く人によっては、「何て失礼な言い方だ」と腹を立て、反発してしまうような言葉かも知れないと思いました。
しかし、これを聞いた群衆は、このバプテスマのヨハネの言葉を聞いた時、素直にこの言葉を受け入れ、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(3:10)と尋ねたというのです。何でそんなふうに受け入れることができたのでしょう。それは、何より、バプテスマのヨハネの言葉に対して、群衆が「厳しい言葉だけど、これは本当のことだ」と思ったからではないでしょうか。また、バプテスマのヨハネに対して、「ヨハネは自分たちのことを思ってこのように語っているんだ」と分かったからではないかと思います。そのように群衆はバプテスマのヨハネに対して信頼していたのだろうなと思うのです。その信頼の中で、彼らは自分たちの問題とまっすぐに向き合いましたし、バプテスマのヨハネの言葉に促されて、新たな歩みに踏み出すことができたのではないかと思うのです。そんなことを考えながら、思わされたことがあります。それは、きっと、彼らがもし自分たちだけで、自分たちの問題に向き合い、改善しようとしたら、そんなふうにはできなかったんじゃないかということです。バプテスマのヨハネが語ったように、彼らはきっと「自分たちはアブラハムの子だ」という甘えから、問題を軽く考えたのではないかと思うのです。そんなふうに、自分たちの問題に本当の意味で向き合うことも、その問題を乗り越えて、新しい歩みに踏み出すこともできなかったのではないかと思います。そして、それは私たちも同じかも知れません。私たちが自分の問題を感じ、このままではいけないということを感づいていたとしても、彼らのように自分だけではきちんとその問題に向き合えないということがあったりするのではないかと思うのです。そんな甘えや弱さが私たちの中にもあるんじゃないだろうかと思いながら、そんな私たちが自分の問題と本当の意味で向き合い、その問題を乗り越えていくためには、私たちにもきっとバプテスマのヨハネのような存在が必要なんじゃないかと思いました。そして、何よりバプテスマのヨハネに対して、群衆が抱いたような「信頼」が必要なんじゃないかと思いました。
その「信頼」があって、私たちは自分では向き合えなかった問題との心砕かれた素直な思いで向き合うことができるし、その「信頼」に支えられ、押し出されながら、自分一人ではなかなか踏み出すことができなかった新たな歩みに踏み出す勇気が与えられていくのではないかと思うのです。
最近、色々な場面で「悔い改め」ということについて考えさせられることがあります。
そんな中、本日の御言葉を読みながら、私たちが本当の意味での悔い改めに導かれていくためには、何よりこの「信頼」が必要なのかも知れないなと思わされました。    (鈴木牧人)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »