「裁く力」
Ⅰコリント6:1-11
本日の箇所には、「聖なる者たちが世を裁くのです」(6:2)ということが記されています。こういう箇所を読む時、どこか躊躇してしまう自分がいます。というのは「何かを裁く」というのが本当に難しいと実感するからです。「何かを裁く」という時、その判断や評価というのはそれぞれです。そんな中、私たちが何かに対して「これはこうだ」と決めてしまうことで、周りに多大な影響を及ぼすことがあります。その「裁きの言葉」によって、傷つく人もいるのだと思います。そのことを考える時、本日の箇所にある「あなたがたが裁くんだ」という言葉に対して、「はい、分かりました」とすぐには言えませんし、難しいなと思うのです。そして、私たちがそんなふうに、「裁く」ということに対して、慎重になること…。ある意味、臆病になるぐらいに、慎重であることは、大事なのではないかと思います。でも、一方で思います。「裁く」ということに可能な限り、慎重でありたいと思うのですが、裁くことを避けて、物事をあいまいに終わらせてはいけないということもあるのではないでしょうか。きちんと目の前の事柄と向き合う中で、自分の中に迷いや葛藤を抱えつつも、体重をかけて、「こうだ」ということを言わなければならないこともあるのだと思うのです。
当時、コリント教会では、大変な不祥事が起きていました。その問題をコリント教会の人たちはすでに知っていたのですが、その問題に誰もふれず、問題解決のために取り組むこともありませんでした。その中で、この問題で傷つけられた人は放置され、結果として、裁判所で訴えることになったのです。そんなコリント教会の人たちに対して、パウロは「それは良くない」と語り、「あなたがたが裁くんだ」と語ったのです。
ある方が以前、こんなことをおっしゃっていました。
「あなたが語る一言が波紋を呼び、その一言で誰かとの関係にかどが立ったり、あなたが避難されるようなことがあるかも知れない。だけど、あなたのその一言が、別の誰かを救うということがあるんだよ。問題をうやむやにされて、そのことを声として挙げられない人が『それはおかしいよ』とはっきりと言ってもらえることで救われるということがあるんだ。」
「裁く」ということを考える時、思い巡らす言葉です。本日のパウロの言葉もそうだったのではないでしょうか。コリント教会の人々は、これまで、この問題に誰もふれようとしませんでした。そんな中、この問題で傷ついていた人にしてみれば、自分の問題が周りからどうでもいいと思われているんじゃないかと感じていたかも知れません。自分が何か周りから取り残されてしまったような思いになっていたかも知れないと思うのです。そのような人たちにとって「教会としてきちんとこの問題に向き合って、自分たちの立ち位置をはっきりさせなさい」と勧めるパウロの言葉は、本当に救われるものだったのだと思うのです。そのように「裁きの言葉」というのは、時に人を深く傷つけることもあるのだと思いますが、人を救うものでもあるのです。そのような大変重く、かつ大切な言葉が「裁きの言葉」なのだと思うのです。