「わたしには、すべてのことが許されている。」
Ⅰコリント6:12-20
「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」(6:12)
この御言葉は、「わたしには、すべてのことが許されている」という部分がカギ括弧でくくられています。これはどういう意味でしょう。これはコリント教会の人たちがこういうことを言っているという意味です。それに対して、パウロが「あなたたちは言っているよね。『わたしには、すべてのことが許されている』しかしね…」という形で語っているのです。
当時のコリントは、不道徳なことが平気でなされていたような、何でもありの状況でした。コリント教会にも「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」(5:1)がありました。そんな状況で「わたしには、すべてのことが許されている」と主張する人たちに対して、パウロとしては「確かにその通りだけど、しかしね」と言わないではいられなかったのだと思います。パウロはこの御言葉をどんな思いで語ったのでしょう。複雑な思いだったのではないかと思います。「わたしには、すべてのことが許されている」ということは、おそらくパウロ自身がコリント教会の人たちに語った福音のメッセージでもあったのだと思います。パウロはコリントの人たちに対し、イエス・キリストの十字架と復活を通して現わされた神の無条件の愛と赦しを伝えました。そんな中、「わたしたちはこのイエス・キリストの贖いの御業によって罪赦されたんだ」と伝えたのだと思います。そのようにパウロはコリント教会の人たちに対して、何よりも、この福音…。私たちを無条件で、丸ごと許し、愛してくださっている神様の愛を何よりも知ってほしかったのだと思うのです。しかし、そのことを聞いたコリント教会の人たちの中で「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉ばかりがひとり歩きをし、結果、「すべてのことが許されているんだったら、自分たちは何をしてもいいんだ」と考えたのです。教会の中に何か問題が起こっていても、「すべてのことが許されているんでしょ。何が悪いの?」と開き直っているコリント教会の人たちを見ながら、パウロは本当に複雑な思いだったんじゃないかと思います。
本日の御言葉を読みながら、聖書の向き合い方について考えさせられます。「わたしには、すべてのことが許されている」との言葉は、福音のメッセージの中心です。私たちはイエス・キリストの十字架と復活にある贖いの御業によって、許されています。徹底的に許されているのです。そのことは決して揺らぐことはないメッセージです。しかし、だからと言って、「自分は何をしても自由だ」と開き直り、聖書の御言葉に対しても、自分のその時々の都合で、聞いたり、聞かなかったりしていてもいいかと言えば、それは違うのだと思います。なぜならば、聖書の御言葉が、私たちにとっての命の言葉だからです。ですから、私たちは「こうしなければならない」という命令のように御言葉を聞くのではなく、私たち自身の選び取りでこの御言葉を自分自身の人生の土台としていくのです。