本日のローズンゲンの御言葉です。
わたしに命と恵みを約束し/あなたの加護によって/わたしの霊は保たれていました。ヨブ10:12
彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。フィリピ2:27
本日の箇所には、次のように記されています。
「彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。」
ここで言われている「彼」とは、エパフロディトのことです。エパフロディトは、フィリピ教会からパウロを助けるために遣わされた人物でした。この時、パウロは牢獄に囚われていました。フィリピ教会の人々は、パウロを助けるため、慰問物資と献金を託し、エパフロディトをパウロのもとに遣わしたのです。
エパフロディトは、軟禁状態で動けないパウロに代わって、あちこちに伝令的な奉仕をしたり、或いは、不自由なパウロのために、身の回りの世話をしたのではないかと思います。その働きの最中で、エパフロディトは病に侵されます。
その病により、瀕死の状況に至ってしまいます。このことは、パウロにとっても、エパフロディトにとっても、フィリピ教会の人々にとっても、ショックな出来事でした。彼らは互いにそれぞれの立場で悩みます。パウロは、エパフロディトの病気を自分のことのように思い、心配しました。せっかく自分を助けるために来てくれたエパフロディトが、このような形で病気になってしまっている…。そんな中、病気のことを心配する以上に、エパフロディトに対しても、フィリピ教会に対しても、申し訳ないという思いも多分にあったのではないかと思います。
また、フィリピ教会の人たちにしてみれば、エパフロディトのことも心配でたまらなかったのだと思いますが、同時に自分たちがせっかくパウロを助けようと思って送り出したエパフロディトがこのような病気になり、逆に迷惑をかけてしまうような事態に心を痛め、悩んでいたのだと思います。
また、そのような形で苦しみ、悩んだのは、他ならぬエパフロディト本人だったのだと思います。
自分がパウロを助けるつもりだったので、逆に迷惑をかけてしまっている…。
パウロに申し訳ないという思い、そして、自分のことを心配しているフィリピ教会の人たちのことを思っても申し訳ないという思いで一杯だったのではないかと思います。そのように、パウロやエパフロディト、そして、フィリピ教会の人々ともに、このような事態の中で、心を痛め、悩んだのです。そんなパウロやエパフロディト、そして、フィリピ教会の人々の姿を見ていく時、それぞれの思いやりの深さというものを痛感します。互いに相手のことを思いやっているからこそ、互いに相手のことを心配したり、悩んだり、申し訳ないと思ったり、心痛めたりしているのだと思うのです。
そして、そんな様子を見ながら、主にある交わりの麗しい姿というものを思いました。
私たちも、主にある交わりに集う中で、時々に色々な思いを通らされることがあるかも知れません。
互いに主にあって繋がり、互いに互いを思いやっているからこそ、相手のことを心配したり、悩んだり、申し訳ないと思ったり、心痛めたりすることがあるのではないでしょうか。それはしんどい経験かも知れませんが、きっとそのような繋がりの中に、私たちはかけがえのないものを見いだすことがあるのではないでしょうか。そして、さらに思うのです。
本日の御言葉には「悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と書かれています。
エパフロディトの病は、パウロやエパフロディト、そして、フィリピ教会の人々にとってショックな出来事でしたし、悲しい出来事でした。しかし、その悲しみのただ中に、主イエスはいてくださったのです。
そして、その悲しみを受け止めてくださり、悲しみがこれ以上重ならないよう、御業を成してくださったのです。
この御言葉を読みながら、主は私たちの歩みをもそのように取り扱ってくださるのではないかと思いました。私たちの歩みには、色々なことがあります。主にある交わりの中にも、色々なことがあります。
主にある交わりに繋がっているがゆえに、互いに相手を思いやるがゆえに、悩んだり、心痛めたりすることもあるかも知れません。
しかし、覚えていたいと思うのです。私たちがそのように互いを覚えあい、相手の痛みを自分の事柄であるかのように痛み、祈る時、主はそんな私たちの交わりの真ん中にいてくださるのです。
そして、私たちのことを顧み、私たちのために御業を成してくださるのです。それが教会の交わりなのだと思うのです。(鈴木牧人)