本日のローズンゲンの御言葉です。

勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。歴代誌上29:12

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、ルカ9:46-47

先日、盛岡に出かけた際に、宮沢賢治記念館に立ち寄りました。
その記念館のお土産コーナーで、南部鉄でつくった「どんぐり」が売っていました。
この「どんぐり」は、宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」にちなんで作ったものだそうです。
「どんぐりと山猫」は、少年一郎と山猫の交流を描いた童話です。
そんな中、山猫が困り果てるのが、どんぐりの裁判です。
どんぐりは互いに誰が偉いのかで争いあっていたのです。
「なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」
そんなふうに、どんぐりは互いに自分が偉いと言って聞かず、山猫の「いい加減に仲直りしたらどうだ」という言葉にも耳を傾けようとはしません。
そんな中、一郎の機転で、山猫がどんぐりたちに申し渡した判決が、次の言葉でした。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
南部鉄の「どんぐり」の下には、この山猫の台詞が書かれていました。
確かに、これらの「どんぐり」は、どことなく不格好で、一個だけでは、さまにならないように見えます。
しかし、それが集まっている様子というのは、何とも愛らしく、思わず、二個お土産で購入しました。
加えて、宮沢賢治が生徒らとイギリス海岸の泥岸層から発見したバタクルミという化石を南部鉄で作ったというレプリカも購入しました。
それらを早速、牧師室に並べてみました。
本日の箇所には、次のように記されています。
「勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。」
本日の御言葉を読みながら「どんぐりと山猫」の童話を思いました。
今も、童話の中のどんぐりのように、わずかなことですぐに競ったり、争いあったりしたりしている私たちがいないでしょうか。
そんな中、いかなるものでの大いなる者、力ある者となさることがおできになる主は、私たちに対して「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ」と呼びかけているのではないかと思うのです。
愛らしい南部鉄の「どんぐり」を飾りながら、その視点を忘れないでいたいなと思わされました。
(鈴木牧人)

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