「主によって自由の身にされている」
Ⅰコリント7:17-24
「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」(7:22)
ここでパウロは、奴隷の身分の人が、キリストと結ばれて新しく造り変えられていく時、その人は、たとえ現実の状況が奴隷状態のままだったとしても、主によって自由の身にされているんだと語っています。現実的には奴隷の身分として不自由なことがあったかも知れません。課題もあったかも知れません。奴隷の生活の中で、歯がゆいこと、涙することもあったかも知れません。色々なことが思い通りにならないことばかりだったかも知れません。しかし、たとえそうであったとしても、その人はその現実にがんじがらめにされたり、押しつぶされてしまうこともないというのです。その人は、今の奴隷としての現実の中で、主が共におられることを知っているからです。今のこの時のことも、主が自分を見つめていてくださり、自分の祈りや訴えを聞いてくださっていると知っているのです。そして、いざという時に守ってくださる…。そのことを知っているのです。それゆえ、現実の状況としては奴隷状態であったとしても、自由であるのです。
私たちも時に現実の色々な場面で不自由に思えることがたくさんあります。自分の思い通りにならないことばかりで、歯がゆさを感じることもあれば、理不尽な思いに涙することもあるのだと思います。そんな私たちは本日の御言葉にあるように「主によって自由の身にされた者」(7:22)という信仰の世界に招かれています。私たちはクリスチャンになったからと言って、不自由で課題だらけの現実から抜け出して、それらの問題から全く解放されるということでありません。ですが、私たちに信仰が与えられる時、どんなに様々な現実に取り囲まれても、がんじがらめにされそうであったとしても、押しつぶされそうになっても、私たちは「主によって自由の身にされた者」なのです。私たちは、その現実のただ中に、主が共にいてくださっていることを知っているのです。主が私たちの重荷を担ってくださり、私たちを覚えていてくださり、私たちも思いも願いも呻きも聞いてくださっている…。支え、守り、導いてくださっていることを知っているから、この状況の中で、「主によって自由の身にされた者」として、主にある自由と平安に生かされることができるのです。
創世記には、ヨセフに関する記述があります。ヨセフは兄弟たちに裏切られ、エジプトに奴隷として売られてしまいました。その後も散々な目に遭って、全くもっていわれもない罪で牢獄に捕らえられてしまいました。ヨセフは現実的な状況としては、理不尽に思えることを幾度も経験し、自分の思い通りにならないことばかりでした。しかし、創世記39:20には、そんなヨセフに対して、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し」たんだと語られています。この記述を読む時、まさにここには「主によって自由の身にされた者」の姿があるのではないだろうかと思います。私たちはこの信仰に招かれているのです。