「愛は造り上げる」

Ⅰコリント8:1-6

本日の箇所には、コリント教会の人たちが偶像に供えられた肉を食べていいかどうかということで悩んでいた様子が記されています。コリントの町は、偶像礼拝が盛んでした。このため、偶像に供えられた肉というものが日常生活に欠かせないものでした。一般社会の交わりでは、度々、偶像に供えられた肉が出されていたそうです。その肉を避けるということは、社会の仲間との交際を断ってしまうことでもありました。また、この肉が普通に店先で売っていたそうです。場合によっては、どれが偶像に供えられた肉か、分からないような状況でした。そのように、偶像に供えられた肉は、コリント教会の人たちにとって、大変、身近なものでした。そんな中、コリント教会の人たちは「クリスチャンとして、この偶像に供えられた肉を果たして食べてもよいのだろうか」と悩んでいたのです。
本日の記述を読む時、コリント教会の人たちの中に大きく分けて、二つの考えがあったことが分かります。一つは「クリスチャンとして、自分の大切な信仰の事柄として、偶像の神に供えられた肉を食べることは避けるべきだ」という考えでした。もう一つは「そもそもこの世界に偶像の神などはない。唯一の神以外にいかなる神もいない。だから、偶像に供えても、供えてなくても変わらないし、その肉を食べたってかまわないんだ」というものでした。この二つの意見が対立していたのです。
本日の御言葉を読みながら、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)という言葉が心に迫ってきました。コリント教会の人たちの中には、様々な議論の中、「自分たちには知識がある」と考えて、高ぶっていた人たちがいたようです。そして、そういうことは私たちもありうるのではないかと思います。自分自身のことを振り返って思います。色々な議論をしている時、相手との違いに「何で?」と思ったり、歯がゆい思いを通らされたりすることがあります。相手に対して、「何も分かっていないな」と思うことがあります。そんな中、つい自分は分かっている側で、相手が分かっていない側…。そんなふうに考えてしまうことがあるように思うのです。しかし、そういう自分に砕かれて、相手の言葉にきちんと耳を傾けることから対話は始まるのだと思います。相手の言葉に耳を傾けながら、可能な限り、相手の思いをくみ取ろうと務め、その対話を通して、互いに気づかされていったり、整えられていったり、お互いが変えられていく…。それが本当の意味での対話なのだと思うのです。
パウロは、コリント教会の人たちにそのような対話をしてほしいと願っていたのではないでしょうか。それぞれの考えがあるかも知れません。神様を信じるがゆえに大切にしている信仰のスタンスがあったかも知れません。しかし、「自分たちは正しい」「自分たちは分かっている」ということで終わってしまうのではなく、目の前の人が考えている声にきちんと耳を傾け、対話をしてほしい…。その対話を通して、互いに気づかされ、整えられ、変えられながら、そのことを通して互いに建てあげられていってほしい…。そのような関係をパウロは願っていたのではないでしょうか。

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