「解放された人の自由な態度」

Ⅰコリント8:7-13

コリント教会の人たちは、偶像崇拝が盛んなコリントの町で「果たして、クリスチャンとして、この偶像に供えられた肉を食べてもよいのだろうか」と悩んでいました。そんな中、大きく二つの意見に分かれていました。一つは「偶像に供えられた肉を食べることは避けるべきだ」という意見でした。もう一つは「偶像に供えられた肉を食べても、食べなくてもかまわない」という意見でした。パウロは基本的に「偶像に供えられた肉を食べてもかまわない」という立場の人たちに賛同していました。しかし、一方で、偶像に供えられた肉を食べることに対して躊躇している人たちに対しても、「どうでもいい」とは考えていませんでした。彼らの思いを十分くみ取りながら、配慮していたのです。
パウロは、本日の箇所で「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(8:9)と語っています。ここで「自由な態度」と訳されている言葉は、ギリシア語ではエクスーシアという言葉が使われています。これは「自由」という言葉に訳されると共に「権威」とか「主権」とも訳されています。別の聖書ではこの箇所をこのように訳しています。「しかしあなたがたは、このあなたがたの権限が、弱い者たちへの躓きにならないように、注意しなさい」(岩波訳8:9) 。この御言葉を読みながら、色々なことを考えさせられました。偶像に供えられた肉を食べるか、食べないか…。それは、パウロの中では「何をしても自由」ということではなくて、それを食べるか食べないかを決める権限が私たちに与えられているんだ…。そういう意味で語られているのです。そして、私たちが何をしても、それは私たちの自由だけれども、選び取りによって、誰かを躓かせてしまうこともある…。そのことを心に留めなさいと呼びかけているのです。
8:9の御言葉を読み返しながら、「自由」ということについて考えさせられました。私たちの信じる福音の世界の中で「自由」は本当に大切なテーマです。福音の世界は「こうあらなければならない」という形で私たちを縛りつける世界ではなく、自由と解放の世界なのです。そのことを何より大切にしていたいと思います。ただ私たちは、この自由というものを取り違えないでいたいとも思います。私たちは信仰によって自由だと言われていることは、自分の好きに何をしてもいいんだということを言われているのではないんだと思うのです。私たちは信仰によって自由が与えられている…。だからこそ、私たちはその与えられた自由の中でどう生きるか、何を選び取るか、何のために生きるかが問われているのです。自分のためにその自由を用いるのではなく、与えられた自由の中で、目の前の相手を思いやり、相手に歩み寄ろうとしていく…。自分自身で自由に選び取る権威、権限が与えられているからこそ、私たちは自分の選び取りで、目の前の相手を思いやり、相手に歩み寄ろうとしていく…。そのようにして、相手の目線に立とうとしていく…。それは本当に尊いことであり、本日の箇所で、パウロがコリント教会の人たちに呼びかけている、本当の意味で、解放された者だから取ることができる「自由な態度」なのだと思うのです。

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