本日のローズンゲンの御言葉です。

わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。ゼカリヤ3:4

息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。ルカ15:21-22

本日の箇所には、次のように記されています。

「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」

この御言葉は、預言者ゼカリヤが見た幻です。

この時、イスラエルの人々は、バビロニアの捕囚生活から解放され、エルサレムに帰還し、イスラエルの国の再建に努めていました。そのイスラエルの人々の先頭に立ち、人々を導いていたのが、大祭司ヨシュアとゼルバベルでした。

その大祭司ヨシュアに対して与えられた幻が、本日の御言葉です。

本日の御言葉の前には、次のようなことが書かれています。

「主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。

ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。』ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。』」(ゼカリヤ3:1-4)

ここに記されているように、預言者ゼカリヤは、幻の中で、最初に、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアの姿を見ました。しかし、そのヨシュアの傍らには、サタンが立ちはだかり、ヨシュアの罪を訴え、責め続けていたのでした。

おそらく「こんな男は神の前に立つ大祭司にはふさわしくない」というようなことを訴えていたのではないでしょうか。

実際、ヨシュアが来ていた衣は汚れていて、とても神の前に出て行くにはふさわしくない姿でした。そんな中、サタンから責め立てられる言葉に、ヨシュアとしては反論できないような状態だったのだと思います。

そして、それというのは、実に象徴的な姿だったのだろうなと思うのです。ヨシュアを始め、イスラエルの民全員が、ヨシュアのような状態だったのではないかと思うのです。彼らはこれまで散々神様に対し、罪を犯してきました。結果、国は滅ぼされ、バビロニアに捕囚の民として連れていかれたのです。

その後、バビロニアの捕囚生活から解放され、再びエルサレムでの生活が始められましたが、困難の連続でした。

その中で、度々に湧き上がってきたのが、「自分たちはもう、かつてのように歩むことなんかできないんじゃないだろうか」ということだったのではないかということだったのだと思います。

周りから「お前たちはすでに神様から見捨てられたんだ」と揶揄されるようなこともあったのではないかと思うのです。

そんなことを思う時、ゼカリヤが見た幻というのは、この時のヨシュアたちが置かれていた現実そのままを表わすような幻だったのではないかと思うのです。しかし、そのようにサタンから責め立てられる中で、主の御使いはヨシュアを擁護し、「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい」と声をかけるのです。そして、「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」と声をかけるのでした。この御言葉を読みながら、色々なことを考えさせられました。私たちも、ヨシュアのような思いにさせられることがあるかも知れないと思うのです。私たちが神様の前に立とうとするのですが、色々なことがうまくいかない…。そんな中、心の中に色々な思いが湧き上がってくるということがあるのではないかと思います。時に自分を責め立てる思いが湧き上がって、「祈っても無駄だ」「お前は神様の前にふさわしくない」そんなふうに責め立てる…。そんな思いを通らされることがあるかも知れないと思うのです。しかし、そんな私たちは、本日の御言葉は力強く、メッセージを語っているのだと思います。

私たちの主はそんな私たちの失敗や罪をすべてご存じで、それでも新たな歩みに生かそうとされている!

ヨシュアに対して、そうなさったように、私たちの汚れた衣を脱がせ、罪を取り去り、新たな晴れ着を着させてくださる!

そのようなメッセージを聞くことができるのだと思うのです。

そして、まさに、このことを私たちに宣言されているのが、イエス・キリストの十字架と復活の御業なのだと思うのです。

本日の箇所を読みながら、そんな神様のメッセージが心に迫ってきました。(鈴木牧人)

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