「福音に共にあずかる」

Ⅰコリント9:23-27

本日の箇所でパウロは「わたしが福音に共にあずかる者となる」(9:23)と語っています。この言葉に注目したいと思います。ここでパウロは、自分がすでに福音にあずかった者で、そのような自分が未だ福音にあずかっていない人たちに福音を伝えていくんだというふうに語っていません。そうではなくて、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように」「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のように」「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように」「弱い人に対しては、弱い人のように」なりながら、その人と共に主を見上げていく時、そうすることによって、その人と福音に共にあずかっていくのだと語っているのです。私たちは時に福音を伝えるということを考える時、つい、こんなイメージを持ってしまっていることはないでしょうか。自分たちはすでにイエス様のことを知っていて、聖書のメッセージも知っている…。そんな自分たちというのは、すでに福音にあずかっている者で、そんな自分たちが、未だイエス様を知らないし、聖書のメッセージも知らず、福音にもあずかっていない人たちに対して、福音を伝えていくんだ…。そんなイメージです。もちろん、私たちは聖書のメッセージを伝える役割があります。しかし、パウロにとって、福音は、福音にあずかっている者が、福音にあずかっていない者に伝えるというものではありませんでした。目の前の人に福音を伝え、その人と御言葉を分かちあい、メッセージを分かちあうことを通して、福音を伝えている自分自身もまた、共に福音にあずかる者とされていくものだったのです。

加えて、パウロは、本日の箇所で私たち一人一人を、競技場の競技者に例えて語ってもいます。この箇所から、ある人がこんなことを言っていました。「ここに記されているように、私たちは信仰の世界において、自分が競技者、プレイヤーであることを忘れてはいけない。私たちは時々、自分が信仰の競技者であることを忘れて、いつの間にか、信仰の評論家のようになってしまっていることがあるんじゃないだろうか。たとえば聖書を読んだりする時に、聖書に出てくる登場人物に関してもあれこれと問題を指摘しながら、自分をすっかり棚に上げているということはないだろうか。そして、それは教会のことだったり、私たちの周りの誰かに対しても、同じようなスタンスになっていないだろうか。そんなふうに私たちは自分がプレイヤーであることを忘れて、信仰の評論家になってしまっているのではないだろうか。」ドキッとさせられる言葉でした。確かにその人の言う通りではないだろうかと思いました。そんな自分に9:24の御言葉は大切なことを問いかけているのだと思います。私たちがこのことをきちんとわきまえる時、私たちは自分を棚にあげて、無責任に問題を指摘したり、批判したりすることはできないのだと思います。誰かの問題や失敗を見ても、その姿に自分自身を顧み、問われたり、砕かれたりしていくのではないかと思います。そのような向き合い方の中で、本当に大切なことに気づかされるのだと思いますし、向き合っていく一つ一つの事柄が生きた出来事になっていくのではないかと思います。

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