「雲の中、海の中で」

Ⅰコリント10:1-4

本日の箇所でパウロは荒野を旅したイスラエルの民の歩みとして、彼らが「雲の下におり、皆、海を通り抜け」(10:1)たと語りました。「雲の柱」ということについてある先生が以前、こんなことを語っていました。「イスラエルの民は、荒野を雲の柱に導かれて歩んだというけれど、荒野に現われる雲の柱とは実際にどういうものだったんだろうか。まず思い浮かぶのは積乱雲である。モコモコと立ち上る雲の姿が柱に見えたりしたかも知れない。もう一つ思い浮かぶのは竜巻である。それも雲の柱に見えるのではないだろうか。だが、竜巻や積乱雲が目の前にあったらどうだろう。普通、そっちの方向に行こうとは誰も考えないと思う。そんなことを考える時、雲の柱に従うということは、容易なことではなかったと思う。その導きに従おうとするより、それを避けようとするのではないだろうか。」私はそれまでそんなこと考えたこともありませんでした。先生のお話をお聞きしながら、雲の柱に従うということは、イスラエルの民の信仰が問われた経験だったんだなと思いました。雲の柱がある方角というのは、普通の人の感覚でいえば、とてもそっちの方がいいとは思えないかも知れません。しかし、イスラエルの民は、そこに神様の導きがあると信じて、雲の柱に従ったのです。結果、「ああ、やっぱりこれでよかった」「確かにこの道を選んで正解だった」そのような信仰の経験をイスラエルの民は通らされたのではないかと思うのです。

10:1には、荒野を旅したイスラエルの民が「海を通り抜け」たことも語られています。エジプトを出たイスラエルの民が、ファラオ率いるエジプト軍に追撃され、絶体絶命の状況で、神様は、葦の海を二つに分けるという奇蹟を通して、イスラエルの民を逃れさせてくださったのです。この時、イスラエルの民は、自分たちではどうにもならないような八方ふさがりの状況に置かれていました。しかし、そのような状況の中で、なおも神様を見上げ、その神様のみをよりどころにした時、イスラエルの人々は、自分たちの考えでは思いもよらないような形で、神様の取り扱いを受け、その困難を乗り越えることができたのでした。

彼らにとって「雲の経験」と「海の経験」は、特別な経験だったのではないでしょうか。主の導きに従いながら、「ああ、この道を選んで正解だった」と痛感した「雲の経験」…。八方ふさがりの状況で、主の取り扱いを受け、「自分が今あるのは、神様のおかげなんだ」と知らされていった「海の経験」…。そのような経験を通して、決定的に主に捕らえられていったのだと思うのです。そして、それは私たちもそうなのではないでしょうか。私たちは目の前の海が二つに分かれるという経験をしたことはないかも知れません。しかし、自分たちではどうにもならないような厳しい現実に向き合わされるということはあるのではないでしょうか。そんな中、自分たちでは思いもよらないような形で神様の取り扱いを受け、その困難を乗り越え、「確かに神様が今も生きて働いておられるんだ」ということを身をもって知り、「自分が今あるのは、神様のおかげなんだ」とひしひしと感じる…。そんな「海を通り抜ける経験」をさせられることがあるのではないかと思うのです。

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