「立っていると思う者は」

Ⅰコリント10:4-12

本日の箇所で、パウロは、荒野を旅したイスラエルの民が犯した様々な失敗の例を挙げて、これらの失敗を繰り返さないようにと呼びかけています。このことについて色々なことを思います。これらの失敗の背後にあったものとは何でしょうか。たとえば「偶像を礼拝する」ことの背後にあるものとは何でしょう。偶像というのは、本当の神様ではないものです。偶像を礼拝することの根底にある問題というのは、神様でないものを神様にしてしまうということだと思います。私たちは時に、神様でないものを神様にしてしまったり、絶対ではないものを絶対にしてしまうことがあるのではないかと思うのです。

また本日の箇所には、イスラエルの人々が「座って飲み食いし、立って踊り狂った」ことを語りながら、彼らのように「みだらなことをしないようにしよう」とも書かれています。このことについて、まず思うのは、飲み食いすることだったり、踊ったりすることは、それ自体、本来、罪ではないということです。私たち人間の心に湧き上がる欲や、感情というものは、必ずしも否定されるべきものばかりではないと思います。食欲だって大事ですし、色々なものを欲することを頭ごなしに否定されるものではないのだと思います。ただ、私たちがよくよくわきまえ知らなければならないのは、そのような欲や感情に流されてしまうと、私たちは自分をコントロールすることができないことがあるということです。自分の欲のままに、感情のままにどこまでも突き進んでしまうことがあるのです。そして、どんどんそのことしか見えなくなってしまって、周りが見えなくなる…。自分のことしか考えずに相手を平気で踏みにじることがあるのです。イスラエルの民は、まさにそのような歩みに流されてしまったのです。

パウロは「彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう」、「不平を言ってはいけない」とも語りました。それらの背後にあるものは何でしょう。この二つの事を自分に引き寄せて考える時、共通する二つの思いが心に迫ってきます。一つは、神様に対する不信、信頼できない思いです。もう一つは、私たちが神様に不平をあれこれ言っている時、私たちはいつの間にか、私たちと神様との関係が逆転させてしまっているのではないかということです。自分と神様との関係がひっくり返ってしまって、神様が上で、私たちが下であるはずなのに、あたかも自分が上で、神様が下になってしまっていることがないでしょうか。そんな中、物事の一つ一つを見ている時、すべてが自分中心の考えになっていて、呟きや不平ばかりが溢れてしまう…。そういうことがあるのではないかと思います。

そんなふうにイスラエルの民が犯した過ちの背後にあったものを考えていく時、その問題性と根深さが迫ってきます。そして、それらのことが今の私たちに決して無関係ではないのだということをつくづく思わされるのです。そんな中、私たちが信仰を立ち続けることができるとするなら、それは最終的に私たちの頑張りではなく、神様の憐れみと恵みゆえなんだなと思うのです。何よりその恵みに生かされていることを忘れないでいたいと思うのです。

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