本日のローズンゲンの御言葉です。
わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。創世記28:15
信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。ヘブライ11:21
先日、金子純雄先生が特別集会でメッセージをされました。
その時、金子先生が取り上げた聖書の箇所が、ガラテヤ4:13です。
「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」(ガラテヤ4:13)
特別集会以来、時々にこの御言葉が心の中で反芻しています。
パウロは、ガラテヤ4:13の御言葉を語った時、どんな心境だったのでしょうか。
福音宣教というのは、パウロにとって全身全霊を傾けて行なってきた働きだったのだと思います。
そんなパウロにしてみれば、体が弱くなるということは、その働きが思うようにはできないということでした。
体が弱くなった時、正直、歯がゆい思いや、苦々しい思いを抱えながら、福音宣教の働きができないジレンマを通らされていたのではないでしょうか。
しかし、そのような中、自分の思いを超えて、神様の御業が起こされ、人々に福音が告げ知らされていったのです。私がもし、その状況にいたらどうだろうと思いました。
きちんと喜ぶべきものを喜べるだろうか…。
自分の体が弱くなったことばかりしか見えずに、嘆いてばかりで、「福音が告げ知られている恵み」にさえ気づけなかったりしないだろうかと思ったりします。
あるいは、体が弱くなったことがきっかけで福音が告げ知らされても、「それじゃ、これまでの私の働きはいったい何?」と「私なんかいてもいなくてもいいの?」といじけてしまうかも知れないと思います。
そんな自分がいるんじゃないかと思いながら、パウロのように様々な思いを通らされつつ、今のこの状況に神様の御業を覚え、その御業を喜ぶということは自明のことではないかも知れないなと思いました。
そして、改めて、パウロの信仰について考えさせられました。
日々の歩みを振り返ってみる時、本当にすぐに視野が狭くなってしまう私がいます。
そんな私というのは、ともすると、すぐに神様が共にいることを忘れてしまったり、神様がせっかく御業をなしてくださっても、そのことに気づかなかったり、喜べなかったりすることがあります。
そんな自分を痛感しながら、だからこそ、聖書の御言葉に、そして、教会の交わりにつながっていることの大切さを思わされるのです。
本日の箇所には、次のように記されています。
「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
本日の御言葉を読みながら、神様につながり続けることの大切さを思います。
私たちはその時々の思いの中で、神様を見失いそうになってしまうことがあります。
しかし、神様はどんな時にも私たちを忘れず、見捨てず、私たちの歩みを取り扱ってくださってくださいます。時に「人生のトンネル」と思うような経験をさせられることがあるかも知れませんが、そのただ中にも神様は共にいてくださるのです。
その神様につながり続けるためにも、聖書の御言葉に、そして、教会の交わりにつながっていたいと思うのです。(鈴木牧人)