「試練と共に」
Ⅰコリント10:13
私は中学生の頃、教会の伝道旅行として、沖縄の石垣島に出かけたことがあります。当時、石垣島の教会で牧会されていたのは、S牧師ご夫婦でした。そのS先生のご自宅に招待され、食事をご馳走になっていた時、S牧師のお連れ合いのKさんがこんなことをおっしゃっていました。「私はこの人と結婚して、ずっと綱渡りの人生だったわ。」S牧師夫婦はこれまで沖縄の様々な教会の開拓伝道をされてきました。その歩みを振り返りながら、しみじみそのようにおっしゃっていたのです。すると、それを聞いたS牧師が声高にワッハッハと笑い出しました。そして一言、「だけど一度だって、落ちたことはなかったろう。神様がおられたから落ちなかったんだよ」と言われたのです。私はあの時のS牧師の豪快な笑い声が忘れられません。やり取りを聞きながら、お二人の信仰がここにあるんじゃないかと思いました。正直、私たちには想像もできないようなご苦労がたくさんあったのではないかと思います。Kさんの言われるように、綱渡りのような、ぎりぎりの状況もあったのだと思います。だけど、一度だって落ちたことはなかった…。神様が守っていてくださった…。その信仰の中で、これまでの働きを担ってこられたんじゃないかと思うのです。本日の「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」(10:13)という言葉を読む時、そんなS牧師夫婦の姿を思い起こします。
本日の箇所には「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に」ということも書かれています。この「試練と共に」というところの「共に」という言葉にも注目したいと思うのです。これは私自身の経験として思うことなのですが、時に私たちの目の前には、祝福と困難というのが同時にやって来るということがあるのではないでしょうか。そんな中、私たちがよくよく心しておかないと、困難ばかりに心が引きずられてしまって、せっかくの祝福が見えなくなってしまったり、せっかくの祝福を祝福として受け取れなくなってしまうことがあるのです。私たちは目の前の困難や課題をどうでもいいとすることはできませんし、楽観視していい加減に考えることもできません。しかし、そこだけを見るのではなく、その出来事の中にある祝福の部分をもきちんと見失わないでいたいなと思うのです。祝福を取りこぼしてしまわないようにと思うのです。
本日の「試練と共に」ということについても、それに通ずるところがあるのではないかと思います。私たちは目の前に試練があると、しばしばそこしか見えなくなったりします。しかし、本日の箇所にある「試練と共に」の「共に」という言葉をよくよく心していたいと思うのです。私たちが試練に向き合われている時、そこにあるのは試練だけじゃないのです。試練と共に与えられているものがあるんだということを覚えていたいと思うのです。何より、試練のただ中で、私たちが決して一人ではありません。どんな時も私たちと共におられ、私たちを見守っていてくださる主がおられます。そして、主は、いざという時には必ず手を差し伸べて、私たちを救い出し、逃れる道を備えてくださるのです。