本日のローズンゲンの御言葉です。

「エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。」ホセア11:3

「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。」2ペトロ3:15

先日の礼拝説教でも、お話しましたが、近ごろ、よく聞く言葉として、私の中で心に残っているのが「Think」と「Thank」です。先日、九州バプテスト神学校の30周年記念式典で、連盟の吉高常務理事が、祝辞の中でこのようなお話をされていました。お話の中で、ハンナ・アーレントというドイツ出身の哲学者、思想家の言葉を紹介していたのですが、ハンナ・アーレントは「英語のThinkとThankは同じ語源なんだ」ということを語ったのだそうです。Think、思うこと、考えることと、Thank、感謝することは、もともと同じ語源、言うなれば繋がっていた言葉だったというのです。吉高先生はこの言葉を紹介しながら、こんなことをおっしゃっていました。

「ThinkとThankが繋がっているように、私たちは考えることから、感謝を見いだすことができるのです。たとえ今が絶望的な状況であったとしても、より考える中で感謝を見いだすことができるのではないでしょうか。」

吉高先生からそのようなお話を聞いた後、9月30日も別の方から、同じ話を聞きました。そのように、同じような話を聞くことに「不思議だなぁ」と思いながら、このことが今の自分に問われているのかも知れないと思いました。今の自分の課題として、立ち止まって、考えること、そして、きちんと感謝を見いだすことが必要なのかも知れないと思わされました。

本日の箇所には、次のように記されています。

「エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。」

ここには、神様がエフライムの人々を取り扱い、様々な問題や痛みから癒してきたにも関わらず、そのことにエフライムの人々が全く気づいていない姿が記されています。この箇所を読みながら、改めて、「Think」と「Thank」を思いました。私たちはどうだろうか…。時にエフライムの人々と同じように、神様が私の歩みを取り扱い、守り、支え、癒してくださっているのに、そのことに気づいていない…。そんなことがないだろうかと思うのです。自分自身の課題として、そのようなことを思いながら、改めて、「Think」と「Thank」の大切さを思わされました。感謝というのは、気づきが必要なのだと思います。気づきがなければ、感謝は生まれないのだと思います。たとえ目の前に感謝なことがあっても、私たちはそれを当たり前のように受け止めて終わるのではないでしょうか。それが当たり前でないと気づける人が感謝することができるのです。そして、そのように気づくのは、その人がきちんと考えているから、気づくのだとも思います。考えるからこそ、ともすると見過ごしてしまいそうなことに気づき、感謝を見いだすことができるのです。そのように考えることと、感謝することは繋がっているのだと思います。本日の礼拝が、主の御前で心静めながら、たくさんの気づきとたくさんの感謝に出会える日となるようにと祈らされます。(鈴木牧人)

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