本日のローズンゲンの御言葉です。

「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」創世記6:9

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイ5:16

先日、藤井健児先生が礼拝でメッセージをされました。藤井先生は、ご自身のこれまでの歩みを証しながら、こんなことをおっしゃっていました。

「自分は小学校に入る前、事故で片目を失明しました。その後、父親も結核で亡くなりました。

そのように悪いことが重なったりすると、周りの人からはすぐに『祟り』だと言われたりします。

でも、そのような時に聖書に出会い、そのメッセージに救われました。聖書には、イエス様が目の見えない人に対して語られたメッセージがあります。ある時、イエス様たち一行が、通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけました。その人を見た弟子たちが 『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』

(ヨハネ9:2) と尋ねました。すると、イエス様は『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(9:3) と答えられたのです。この御言葉は、

そのまま私に語りかけられていると思いました。」

その後、藤井先生にバプテスマを授けられた熊野先生から「あなたのように、人生の暗やみに置かれたからこそ、語れる福音がきっとある」との押し出しを受け、西南神学部に入学しました。

そして、福岡市東区に住んでおられたお母さんが購入した土地を主の御用のために用いたいという思いが与えられ、この地で開拓伝道をすることになりました。こうして、東福岡香椎伝道所が開設され、その牧師としての働きを担うことになったのです。この伝道所が後に香住ヶ丘教会となりました。藤井先生は、メッセージの中で、こんなことをおっしゃっていました。

「私たちが光であるわけではありません。光はイエス様です。私たちはイエス様から光を身に受けながら、その光を反射する月のようなものです。」

藤井先生のお話を聞きながら、藤井先生がまさにイエス様の光を身体一杯に受けながら、これまでの牧師としての歩みをされてきたのだなということを思いました。

本日の箇所には、次のように記されています。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

本日の御言葉を読みながら、先日の藤井先生のメッセージを思い出しました。

そんな中、私たちもイエス様の光を身体一杯に受けながら、精一杯、反射する者とされていきたいと思わされました。(鈴木牧人)

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