「天国は彼らのものである」

マタイ5:3

 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(5:3)

本日は、この御言葉から「貧しい」ということについて考えさせられました。そもそも私たちはなぜ「貧しくなる」ということがあるのでしょうか。色々な理由が考えられるかも知れませんが、その要因の一つとして「周りから搾取されてしまっている場合」が挙げられるのではないでしょうか。その人が置かれている社会的状況がそうなのかも知れませんし、周りの人たちとの関わりでそうなってしまっているのかも知れません。いずれにしても、その人が本来持っているはずのものを、周りから奪い取られてしまっている…。結果、この人は貧しくなっているのです。それは、その人自身に原因がある場合もあるかも知れませんが、そうではなく、全くもって理不尽な理由で、その人が本来持つべきものが奪い取られ、貧しくされてしまっているということもあるのだと思います。私たちの現実ではしばしばそういうことがあって、世界の貧困問題の多くはそのようにして起こっているのではないかと思います。「心が貧しい」という時にも、そういうことがあるのではないでしょうか。その人が置かれている現実的な状況、社会的な立場、それが、全くもって理不尽で、その人の心が奪い取られてしまっている…。すり減らされてしまっている…。あるいは、周りの人たちの関わりに傷つき、苦しみながら、心を失っている…。そういうふうにしながら、心が貧しくなっているのです。

そういう状況にある人たちを思い浮かべる時、改めて、本日の御言葉が心に迫ってきます。現実的な状況として、理不尽なことばかりで、心が擦り減られている…。あるいは、周りの人たちとの関わりにいっぱい傷つき、孤独を感じて、心がかすかすになっている…。そういう時に、「あなたは決して不幸ではないんだよ。あなたには、世にはない喜びがあるんだ。どんなに多くのものを失ったとしても、自分には何もないんじゃないかと思うような状況に置かれたとしても、あなたには誰にも奪い取られることがない、揺るがない財産がある。天の国は、まさにあなたたちにこそ、与えられているものなんだ。」私たちは本日の御言葉から、そのような「福音」を聞くことができるのではないかと思います。

私たちが、これまで、教会の交わりで出会い、本日、こうして召天者記念礼拝で覚えている人たちの中にも、そのような理不尽な思いをたくさんしながら、心の貧しさを通られた人もおられたのではないかと思います。たとえば、すでに召された人の中には、長い間に渡って闘病生活をされた方がいました。また、人生の中で、私には想像もできないようなたくさんの苦労を経験されてきた方もいました。そのような方々が、痛みや苦しみの中で、イエス様に出会いを通して、慰めや喜びが与えられ、しんどい人生のただ中で、それに優る生きる希望を与えられ、生涯を全うしていった…。そのような姿を見てきました。その姿を見ていく時、まさにこの人たちは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との福音に生きたんじゃないだろうかと思うのです。

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