「真ん中に立ちなさい」
マルコ3:1-6
本日の箇所には、片手の萎えた人の癒しの記述が記されています。この箇所を読んでまず思うのは、人々はこんなにも片手の萎えた人に注目しているのに、誰もこの人の気持ちなんて考えていないんだなということです。片手が不自由であることで、この人がこれまで思いで過ごしてきたのかということを周りの人々はまるで考えていないのです。人々の関心は、この片手の萎えた人を通して、どうやってイエスを訴えようかということだけでした。
私は以前から、この聖書の箇所を読んで思っていたことがありました。それは何で、イエス様は、安息日にこの人を癒されたんだろうかということでした。もし癒しが安息日以外に行なわれたら、周りの人たちの反発はそれほどなかったのではないでしょうか。ですから、片手の萎えた人にこういうふうに言うこともできたんじゃないかと思います。「片手が不自由で本当に大変だったよね。苦労してきたね。よく分かるよ。この手を癒してあげる。だけどさぁ、明日まで待ってくれない?今日は安息日だし、あと一日ぐらいだったら待てるよね。」そう言うこともできたんじゃないかと思います。それなのに、イエス様は安息日に片手の萎えた人を癒されたのです。何故でしょうか。色々なことが考えられるかも知れません。ただ、私は本日の箇所を読んで、二つのメッセージが心に響いてきます。その一つは、イエス様という方は、いつも、一番傷んでいる人、一番弱くさせられている人、一番小さくさせられている人のところに、まず初めに近づいていかれ、その人の声を、まず最初に聞かれる方なんだなということです。この場所には色々な人がいました。色々な声がありました。しかし、イエス様はこのところで、もっとも傷んでいる人、弱くさせられている人、小さくさせられている人である片手の萎えた人に近づいていかれ、この傷みの声を聞かれたのです。このことは、私たちにとって、心に留めておきたい、とても大事なことなんじゃないかと思います。私たちはよく「神様の御心はどこにあるのだろうか」と迷うことがあります。そんな私たちに、この箇所は大切な指針を教えてくれるのではないでしょうか。
同時にもう一つ、思うことがあります。それは、イエス様があえて安息日に癒しの業をなさったのは、周りの人々のためでもあったのではないかということです。頑なで、自分たちの思いや考えに凝り固まったままで、目の前の片手の萎えた人の気持ちなんてまるで考えようともしていない人々に対して、イエス様は、この一連の出来事を通して、問いかけておられるのではないかと思うのです。「あなたたちは自分の凝り固まった考えに縛られてばかりいないで、もう少し物事をよく考えてみなさい。今この場所にいる、この人のことをよく見なさい。この人が置かれている状況を考え、この人の気持ちをよくよく考えてみなさい。ちょっと想像してみたら、分かるでしょ。そんなに難しいことじゃないでしょ。そのように相手の思いや痛みを考えることができたなら、何が神様の御旨なのか、何がよいことなのか。あなたたちにだって分かるでしょ。」イエス様は、人々にそのことを問うために、あえてこの片手の萎えた人の癒しをなされたのではないかと思うのです。