「神様の恵みはこれ!」

Ⅰコリント10:23-31

「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」(10:23)ここでパウロは繰り返し、「すべてのことが許されている」と語っています。これは当時のコリント教会の人たちが語っていた言葉なのだと思います。同時にパウロ自身が人々に伝えていた福音のメッセージでもありました。しかし、パウロは「すべてのことが許されている」という言葉に続けて語るのです。すべてのことが許されている…。しかし、すべてのことが益になるわけではないし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない…。本日の箇所を読みながら思うのは、コリント教会の人々が福音のメッセージを分かち合ってはいるんだけども、どこか肝心なことを分かち合えていない…。そんな姿です。それに対して、パウロは神様の恵みはそれだけじゃないんだ…。本当の神様の恵みはこれなんだということを伝えようとしているのだと思うのです。

私たちが何より分かち合いたい聖書の大切なメッセージは「ゆるし」です。私たちというのは、いかに「ゆるし」から迷い出てしまうものでしょうか。自分のことを顧みてそう思います。イエス・キリストの十字架のメッセージを知っているはずなのに、ふと気づいてみれば、すぐに「ゆるし」の世界から迷い出てしまっている自分がいるのです。そんな自分を思いながら、絶えず、神様のゆるしのメッセージに立ち帰り続けることが必要だと思います。そして同時に、私たちが本当に神のゆるしに出会っていくとするなら、私たちがその本当の意味を知って、このゆるしに生きようとしていこうとするなら、「すべてがゆるされた」だけで終わらないのだとも思います。「すべてがゆるされた」というのは、そこだけで終わってしまうなら、時にそのメッセージが一人歩きをしてしまうのです。結果、何でもありになってしまうことさえあります。実際、コリント教会では、そうなっていたのだと思います。互いに「すべてのことが許されている。」と語り合いながら、何でもありになっていました。結果、教会はぐちゃぐちゃでした。「自分たちは神様にすべてのことが許されているんだ」と言いながら、実際には好き勝手して、とんでもない問題が起こったり、ゆるしのメッセージを聞いているはずなのに、互いに批判をしたり、裁き合ってばかりいました。結果、教会にいくつもの派閥ができあがり、分裂状態になっていました。そんなコリント教会の人たちの姿を見る時、とてもじゃありませんが、「これが神様の恵みだよ」とは言えないような状況があったのではないでしょうか。そして、それというのは、私たちに無関係でしょうか。私たち自身も同じように問われていることがあるかも知れないと思うのです。せっかく神様からの恵みを受けたのに、そのことを信じて歩み始めたはずなのに、コリント教会の人々のようになってしまっていることがあるかも知れないと思うのです。そんな私たちの何が問題なのか、何が問われているのかと思う時、何より問われているのは、私たちがいつの間にか、肝心な神様の恵みを見失っていることなんじゃないかと思うのです。

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