「あなたを一人にしない」

ルツ記1:19-2:20

ルツ記を通して、最も心打たれるのはナオミの姿です。自分を「マラ(苦い)」としか思えず、「自分は神様からひどい目に遭わされている」と語っていたナオミは、やがて「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主」(2:20)と神様を讃美するようになりました。神様は私たちをこんなふうに取り扱ってくださるんだなと思います。

ナオミは神様の取り扱いを通して変えられました。しかし、一方で思うのは、その過程において、周りの人の関わりも大きかったということです。特に、ルツの関わりは大きかったのだと思います。ルツにできたことは、ほんのわずかなことだったかも知れません。しかし、かけがえない働きでした。大きく分けて二つのことが言えるのではないでしょうか。

一つは、ナオミに寄り添い続けた姿です。ルツはナオミの傍らに寄り添い続け、ナオミを受容します。しかし、そんなルツがナオミに対して、唯一「ノー」と言ったことがありました。ナオミがルツに、「私はベツレヘムに行くから、あなたたちは自分たちの故郷に帰りなさい」と説得した時、ルツは「ノー」と言いました。ルツが唯一こだわったことは、ナオミに対して「あなたを絶対に一人にはしません」ということでした。

もう一つ、ルツがしたことがあります。ナオミとルツはベツレヘムに帰ってきましたが、二人に何か生活のあてがあったわけではありませんでした。毎日の食べ物にも困ってしまう状況でした。そんな中で、ルツは「落ち穂を拾います」(2:2)と出かけるのです。落穂拾いは、畑を収穫した後に、収穫し忘れた麦などを拾う仕事です。重労働の割には、得られるものがあるかどうかも分からないような仕事でした。でも、ルツは自分ができることして、「落穂を拾いに行ってきます」と出かけていったのです。

このように、ルツがしたことは、ナオミに寄り添い続けたこと、そして、落穂拾いに出かけていったことでした。これらのことは、正直言って、ナオミが抱えていた問題を根本的に解決するようなものではありませんでした。本当にささいなことにしか思えないようなことだったのだと思います。しかし、ルツがはたした役割は本当に大きなものでした。ルツがナオミと一緒にいなければどうなったでしょう。そして、この時、落穂拾いに出かけていなかったらどうでしょう。ルツはボアズと出会うこともなかったでしょうし、ナオミの家が回復することもなかったのです。

そんなルツの姿を見ながら、思うことがあります。何というのでしょう。このルツの姿というのは、私たちクリスチャンが果たすべき役割というものを象徴的に表しているのではないでしょうか。私たちの周りには様々な課題を抱えている人がいます。その人たちに対し、私たちは本当にわずかなことしかできないかも知れません。しかし、目の前の人と寄り添うことだったり、わずかばかりであっても、主に期待しつつその時できることをしていくことができるのではないでしょうか。主はそんな私たちを通して、御業をなしてくださるということがあるのではないでしょうか。

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