本日のローズンゲンの御言葉です。

「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。」イザ43:20

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。』」ヨハ7:37

先日、九州バプテスト神学校の講義の中で、こんな話をしました。

「クリスマスというのは、ある意味、日本の社会で言うなら、一年の中で最も『教会が注目される時』  なのではないでしょうか。クリスマスイルミネーションは、いたるところに輝かせているが、その中でも『本当のクリスマス』を語ることができるのは、教会だけです。そして、クリスマスだけは教会に行ってみようという方もおられたりします。そんな中、私たちはこの注目されている時に、何を語ることができるでしょう。改めて、このクリスマスの時期、教会の使命について問われているのではないかと思います。」 そのような話をする中で、こんな話にもなりました。

「ただ一方、私たちの現実を考えてみる時にクリスマスの時期というのはとかく色々と慌ただしくて、私たちの側がいっぱいいっぱいになってしまったりしています。『クリスマスの時期は《くるしみます》だ』と嘆く神学生なんかもいました。そんな中、私たちが本当のクリスマスを伝えられているかどうか、今一度、きちんと立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。」

そんなことを分かち合いながら、私たちがクリスマスを伝えるにあたって、何よりもまず、私たち自身がクリスマスの意味を心に刻むことが必要ですねということを話しあいました。

本日の箇所には、次のように記されています。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。』」

本日の箇所を読みながら、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」という言葉が心に迫ってきました。ここで言われている祭りというのは、単なるフェスティバルのことではなく、礼拝です。その祭りで一番盛大に祝われる大事な日に、イエス様は「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われたのです。このようにイエス様が言われたということは、実際に渇いている人がそこにいたのだろうと思います。本来であるならば、祭りの一番盛り上がる時ですから、人々の心が最も霊的に満たされている時だったはずなのではないでしょうか。しかし、そのような時であるにも関わらず、心渇いている人たちがたくさんいたのです。本日の箇所を読みながら、私たちもそのようにならないようにしないと…、と思いました。そして、思ったのは、先日、九州バプテスト神学校で話し合ったことでした。せっかくのクリスマスを過ごしているのに、私たちが慌ただしく過ごす中で、せっかくのクリスマスの喜びを見失っているとするなら、私たちは本日のヨハネ7:37の人々と同じになっているのではないでしょうか。そんなことを思いながら、改めて、「わたしのところに来て飲みなさい」との御言葉の呼びかけが心に迫ってきました。私たちは時に、ヨハネ7:37の人々のように、せっかくの祭りを行なっていても、それが形だけのものになってしまって、祭りの祝福を見失ってしまっていることがあるかも知れない…。そんな中、何よりも大事なことは、今一度、イエス様に心を向け、イエス様の御前に静まることなんだなと思いました。そのようなイエス様との霊的交わりや出会いから、私たちの心の渇きは満たされていくのだと思うのです。本日の御言葉を読みながら、改めてそのようなことを思いました。(鈴木牧人)

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