本日のローズンゲンの御言葉です。

あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。申命記30:2,3

神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。ヤコブ4:8-9

本日の箇所には、次のように記されています。

「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。」

本日の箇所の御言葉は、以前から知っていた言葉ですが、以前はよくこんなふうに読んでいました。

罪人たちや心の定まらない人たちに対して、罪の悔い改めを迫りながら、「自らが犯してきた罪を悔いて嘆き、嘆きなさい。あなたたちは、喜んでいる場合じゃないし、笑っている場合じゃないんだ」と言っているような御言葉として読んできました。

確かに一義的にはそんなふうに読み取ることができる御言葉なのではないでしょうか。

しかし、本日、改めて、この箇所を読みながら、いつもと違うメッセージとして心に迫ってきました。

まず「心の定まらない者たちってどういう人たちだろう?」ということについて考えさせられたのです。

心の定まらないってことは、色々な意味で、自分自身、自分のことが分からなくなっているということでもあるのではないでしょうか。そんな人のことをイメージしながら、ふと思い出したことがありました。

先日、ある人とお話をしました。その人は、職場の人間関係で悩んでおられました。

お話を聞きながら、上司から色々なことを言われて、辛かったり、傷ついたりしたんだろうなということをひしひしと感じました。そして、その人に対して、こんなことを尋ねました。

「本当にひどいことを言われましたね。そういうふうに言われて、腹が立ったりしましたか?」そのように尋ねました。

すると、その人は「腹が立ったかどうかと言われると…」と言われたまま、答えに困っておられました。

その様子を見ながら、色々なことを思いました。何より思ったのは、「この人は本当に優しい人なんだろうな」ということでした。でも、その優しさゆえに、この人は、周りから傷つくような言葉を言われても、それを全部飲み込み、自分一人で抱え込んでしまっているんじゃないかなと思いました。そして、たくさん無理をしてまって、アップアップになってしまっている…。そのような状態なんじゃないかなと思いました。そんな中、私が話したのは、「腹が立つ時に、『腹が立つ』と言ってもいいと思いますよ」ということでした。「腹を立てなさい」と言うなんて、牧師の言葉じゃないと思う方もおられるかも知れません。しかし、私たちはやっぱり、傷つくこともありますし、嫌なことは嫌だと思うこともあります。

腹が立ってしようがないことだってあるのだと思うのです。そんな時に、私たちが自然に湧き上がる感情を無理に抑え込んだり、心に蓋をして、しまい込んでしようとしても、いつかは無理が出てしまうのではないかと思います。

そして、そんなふうに色々な思いを無理に抱え込んでしまう中で、私たちは時に、自分で自分が分からなくなってしまうようなことさえあるのではないかと思うのです。

本日の「心の定まらない者たち」という言葉を聞きながら、ふと、そういう人たちの姿を思い浮かべました。

そして、そういう姿を思い浮かべながら、本日の聖書の御言葉が全然違ったイメージで心に迫って来ました。

「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。」との御言葉が、自分を誤魔化して、偽って、笑っていなくていいんだよ、ちゃんと悲しい時には悲しい、辛い時に辛いと言っていいんだよというメッセージとして心に迫ってきたのです。

御言葉の一つの読み方として、そんな読み方をしてもいいんじゃないかと思いました。

私たちの歩みには、色々なことがあります。

そんな中、時に無理をして、迷ったりして、自分自身を見失い、心定まらなくなってしまうことがあるかも知れません。

しかし、私たちのイエス・キリストは、そんな私たちを解放し、本当の自分自身を取り戻してくださる方です。

そのイエス・キリストに出会っていくことが、何より「福音」なのだと思います。(鈴木牧人)

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