「あなたが必要」

Ⅰコリント12:12-26

 本日の箇所で、パウロは、「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」(12:13)聖霊によって一つの体なんだと語っています。そのような私たちは、お互いのことを「お前を要らない」などと言えないですし、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」(12:22)なのです。ここには、私たち教会の交わりが、互いに弱さを抱えた交わりであり、そういう弱さの中でこそ、私たちはキリストにあって互いに繋がっているんだということが言われているのです。

本日の箇所を読みながら、改めて、教会の交わりというものは、こういう交わりなんだと思いました。ただ同時に、こういうことが分かっていても、実際の歩みでは、中々、相手の弱さや違いを受け入れられない私たちがいたりするんじゃないかと思ったりします。たとえば、本日の箇所で、パウロが語った「ユダヤ人とギリシア人」についても思います。彼らが共に歩もうとする時、実際の歩みで色々な思いを通らされたのではないでしょうか。ギリシア人から見て、ユダヤ人は律法などの戒律にいちいちこだわる「面倒な人たち」に映ることもあったのではないかと思いますし、ユダヤ人から見たら、ギリシア人は余りにもいい加減で「こんな人たちが本当にクリスチャンなの?」と思うことがあったのではないかと思います。奴隷と自由な身分の者が一緒に歩もうとする時にも、それぞれ色々なことを思ったりしなかったでしょうか。自由な身分の人たちからすれば、「何で俺たちが、あんな奴隷の奴らと一緒に交わらなければいけないんだ。俺たちはもっとハイクラスな世界に生きているんだ」という思いがよぎったかも知れませんし、奴隷たちからすれば、自由な身分の人たちを見て「あんな優雅な暮らしをして、あの人たちに俺たちの気持ちなんか分かるわけない。あの人たちと一緒だなんて思えない」と思うことはなかったろうかと思います。そういうお互いが、一つになるということは、簡単なことではなかったのだと思うのです。そんなことを思いながら、私たちもそういうことがあるかも知れないと思いました。

ただ一方で思うのです。本日の箇所には、「ほかよりも弱く見える部分」と書かれています。ここで言われている「弱い部分」ってそもそも誰なのでしょう。ユダヤ人とギリシア人のどちらが「弱い」のでしょうか。一概には言えないのではないでしょうか。ただ一つ言えるとすれば、私たちは互いに相手の足りないところや弱さがよく見えているのですが、自分自身の足りないところや弱さは中々見えないということです。

加えて、思います。それは、「弱く見える」人、弱さを抱えている人、そういう人だからこそ、分かることがある、見えていることがあるということです。実際、私はこれまでの歩みでそういう視点から大切なことをたくさん教えてもらってきました。

そんなことを思いながら、本日の御言葉が改めて、心に迫ってきました。私たちには、根本的な部分で中々、弱さや違いを受け入れることが中々できない部分があります。しかし、だからこそ、本日の御言葉に立ち止まって考えることが必要なのではないでしょうか。

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