「愛がなければ」
Ⅰコリント13:1-3
本日の箇所は、異言について、預言について、信仰の業について、施しについて書かれた箇所です。コリント教会では、特に異言の業などが熱心になされていたようですが、それらの働きについて、どれだけそれらの働きが起こされていたとしても、そこに愛がなければ、無に等しい…。何の意味もないんだということが言われています。本日の箇所を読みながら、まず思ったことは、愛がない状態の中で、こういう色々なことができちゃっているんだなということでした。「愛がない」と言われている状況があるのですが、人々は聖霊の賜物としての異言を語っているのです。また、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じ、預言の言葉を語っているのです。愛はないんですけれども、人々は揺らぐことのない完全な信仰を持っていて、その信仰は山をも動かすような信仰だというのです。そして、人々は貧しい人への施しをし、わが身を犠牲にしている…。そういう色々なことがなされているのです。そのような状況を想像しながら、このことが逆に厄介な話かも知れないなと思いました。肝心な愛がないのです。でも、色々なことができちゃっている…。それというのは、逆に色々なことができちゃっているがゆえに、問題が見えにくくなってしまっていたり、問題を問題だとしにくい…。そういうことがあるんじゃないかと思うのです。
加えて、本日の箇所から考えさせられたことは、「愛がない」とはそもそもどういうことだろうかということでした。色々言えるかも知れませんが、一つ言えることは、「愛」というのは「関係概念」だということです。私たちが愛するという時には、必ず、そこには相手がいるのだと思うのです。私たちが愛する対照があるのです。これに対して「異言」について考えてみる時に、そのような相手がいなくても、成立することかも知れないと思います。「預言」についても、同様ではないでしょうか。そのように考える時、「愛がない」と言われていることの根本的なことの一つとして、そこには互いに関係を持つということが抜け落ちるということがあるんじゃないだろうかと思いました。別の言い方をするなら、私たちが相手に対して無関心になる…。自分だけで完結してしまう…。そういう状況があるのではないかと思います。
加えて、本日の箇所でパウロは「愛がなければ、無に等しい」と語りました。「無に等しい」とはどういうことでしょう。このことについても色々なことが言えるかも知れません。ただ、私たちが心に空しさを抱えている時、私たちはおそらく、自分でもどうにもならないもやもやした思いを抱えながら、何かを必死に求めているということがないでしょうか。何かを得たとしても、自分の中で本当に満たされたものがないのです。自分が得ているものも喜べなかったり、周りから色々してもらっていることも分からない…。そういうことに思いを向ける余裕がない…。そんなことがあるんじゃないだろうかと思いました。
そんなことを色々と考えさせられながら、それら一つ一つが、コリント教会だけの問題ではなく、私たちにも問われていることなんじゃないかと思いました。