本日のローズンゲンの御言葉です。

「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」詩130:6

「愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」ユダ20-21

よく「信仰とは何ですか?」という質問をされることがあります。その時にお話しするこんな話があります。

これは、私がずい分前に聞いた話です。 ある島に一人の宣教師が宣教のために遣わされました。その宣教師は福音を現地の人たちに伝えるために、現地の言葉で聖書のメッセージを伝える必要があると考えました。こうして宣教師は聖書の翻訳作業にかかりました。しかし、翻訳作業をしていて、どうしても訳語が思いつかない言葉がありました。それが「信仰」という言葉でした。どうしても「信仰」という言葉に適した言葉が見つかりません。色々と悩んでいたところ、現地の長老がそのことを聞きつけました。長老は宣教師が困っていると聞いて、心配し、宣教師のもとを訪ねました。長老は宣教師の部屋に入ると、部屋の中にあった椅子に腰かけました。そして一言、「自分は今、全体重をこの椅子に預けている」という意味の現地の言葉を語ったそうです。

すると、それを聞いた時、宣教師は「これだ!」と思ったそうです。こうして、宣教師は「信仰」を現地の言葉の「全体重をそこに預ける」という言葉に訳すことにしました。そして、聖書の翻訳を終えることができたというのです。

私は「信仰とは何ですか?」という問いに対し、よくこの話をします。そして、「聖書が私たちに語りかける信仰とは、何よりも神様が全部の体重を神様に預けることなんだと思います」と話しています。本日の箇所には、次のように記されています。

「愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」

本日の箇所には「信仰をよりどころとして生活しなさい」と記されています。この御言葉を読みながら、改めて「信仰」の話を思い出しました。新年度が始まり、一週間が経ちました。

すでに、この一週間、色々あったという方もおられるかも知れません。また学校などはいよいよ本日から新しい年度がスタートしていくのだと思います。それぞれ様々な歩みがありますが、共に神様に体重を預けながら、信仰をよりどころとして歩んでいきたい…。そんなふうに思いました。(鈴木牧人)

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