「聖書に書いてあることは、本当だ!」
ルカ24:36-53
本日の箇所には、十字架にかけられ、死なれた後、復活されたイエス様が、弟子たちに現われた時の様子が記されています。しかし、弟子たちは、最初、喜ぶことはできませんでした。むしろ、復活されたイエス様を見て、恐れおののいたのです。イエス様が復活されたことを信じられなかったからでした。そして、それというのは、この時だけではありませんでした。たとえば、ルカ24:9-11には、イエス様の復活を最初に知った女性たちが、弟子たちにそのことを知らせたところ、弟子たちは「その話がたわ言のように思った」と記されています。また、エマオの途上で二人の弟子が復活されたイエス様に出会った後も、そのことを信じられませんでした。そんな弟子たちの記述を読みながら、本当にリアルだなぁと思ってしまいます。弟子たちはこれまでも、イエス様御自身から、十字架の苦難の話だったり、復活の話を聞いてきたはずでした。にも関わらず、いざ実際に復活が起こると、そのことを受け止められないのです。その姿を思いながら、実際にその場所にいた弟子たちのリアルな姿を思います。そして、私自身問われているように思うのです。自分の中に、弟子たちのような自分はいないだろうかと思います。聖書の話を耳は聞いています。しかし、それをどう受け止めているかと言うと、どこかきちんと受け止められていない自分がいて、弟子たちのように肝心なことが分かっていない自分がいるんじゃないだろうかと思うのです。
今回、本日の箇所を読んで、改めて、イエス様の憐れみと忍耐深さを思いました。本日の箇所には、これまで散々、十字架と復活のメッセージを語ってきたのに、聞いているようで聞いていないような弟子たちがいました。そんな弟子たちの姿に対して、イエス様はそれでも弟子たちに忍耐強く関わりながら、「聖書に書いてあることは本当なんだよ。」と教えてくださっているのです。24:44-46には、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と記されています。イエス様は弟子たちに対して、「これはすでに聖書に書いていることなんだ。私はこれまでだって、あなたたちと一緒にいたころから、話してきたことなんだ。聖書に書いてあることは本当なんだよ。」と教えられたのです。そんな中、それまでの自分勝手で曖昧な聖書の読み方に砕かれ、心の目が開かれ、新たな思いで聖書の御言葉を受け取るように導かれていったのです。復活の出来事には、くり返し、このような記述がくり返し、記されています。イエス様から御言葉を聞きながら、実際のところ、全然分かっていなかった弟子たちに、それでも忍耐をもって関わりながら、復活の決定的な事実を証ししながら、「聖書に書いてあることは本当なんだよ」ということを教えてくださっているのです。このようなイエス様の関わりは、弟子たちに対してだけではないのではないでしょうか。私にもそうなのだと思うのです。御言葉を聞いていても、未だ分かっていないところだらけの私に対して、忍耐深く関わりながら、様々な出来事を通して、「聖書に書いてあることは本当なんだよ」と教え続けてくださっているのだと思うのです。