「わたしにも現われた」
Ⅰコリント15:3-8
本日の箇所で、パウロは福音において「最も大切なこととして」(15:3)イエス・キリストが「私たちの罪のために死んだこと」(15:3)、そして、「三日目に復活したこと」(15:4)を語りました。パウロはおそらくこれまでも、このメッセージを幾度となく、コリント教会の人たちに語ってきたのだと思いますが、ここで改めて、このことを語りかけているのです。なぜでしょうか。それは、コリント教会の人たちの中で、このイエス・キリストの十字架と復活の出来事がぼやけてしまっていたからではないかと思います。
私たちがイエス・キリストの十字架と復活の出来事がぼやけてしまったり、分からなくなってしまっている時に、どうなっているでしょうか。それは人それぞれなのかも知れません。ただ、私は自分自身のことを振り返ってみる時、心に迫ってくる聖書の箇所があります。マタイ16:21-23には、イエス様が弟子たちに対して、御自分の十字架の出来事と復活の出来事をお話しになった時の様子が記されています。この箇所には、まさに復活の出来事が全くもって受け止められていない弟子たちがいたのだと思います。この箇所の他にも弟子たちは、時々にイエス様の復活を受け止めることができないでいました。そして、そういう時に、弟子たちがどんなふうにだったのかと言いますと、共通して言えることがあるのではないかと思います。一つは、とにかく「今しか見えていないんじゃないか」ということです。加えて、思うのは「神様に期待することができなくなってしまっている」ということです。それよりも、目の前の問題、煩いごとに心が囚われてしまっているのです。マタイ16:21-23のペトロにもそういう様子が現れているのではないでしょうか。そんなペトロのことをご覧になって、イエス様は言われたのが「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)という言葉でした。まさにそうだったのだろうと思います。ペトロは人間のことしか思えなくなっていました。自分のこと、周りの人のこと、そのように人のことしか、見えなくなっていたのです。神様のことはすっかりぼやけてしまっていたのです。
このペトロのことを思う時、私自身、そういうことがあるんじゃないかと思います。そんな私にとって、復活の信仰が与えられるということはどういうことでしょう。一言で言うなら、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ということの反対…。人のことを思う思いから、神のことを思う思いに変えられていくことではないかと思います。色々なことがあるかも知れませんが、何より、神に目を向け、神に期待し、神を畏れる思いが与えられていくということです。そんな中、何よりも、私たちは神様の御言葉に思いが向けられていくのです。御言葉を信じる信仰に立ち戻らされていくのです。本日の箇所でも、パウロはくりかえし、「聖書に書いてあるとおり」ということを語っていますが、復活の出来事を信じるということは、「聖書に書いてあることは本当だ」という信仰と深く繋がっています。そんな中、キリストの復活を見上げる私たちは何より聖書に期待する信仰に立つのです。それがキリストの十字架と復活の信仰に生かされていくということなのではないでしょうか。