本日のローズンゲンの御言葉です。

主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。詩篇111:2

わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、エフェソ1:17

本日の箇所には、次のように記されています。

「主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。」

本日の箇所を読みながら「(主の御業を愛する人は)それを尋ね求める」という言葉が心に留まりました。

この御言葉を読みながら思ったことは、主の御業というのは、時に私たちが尋ね求めることによって、見いだしていくものなんだなということでした。そして、ふと思い出したことがあります。

十数年前になりますが、私があるグループのクリスマス集会でメッセージをさせていただいた時のことです。メッセージを終えた後の休憩時間に、一人の女性からこんな質問をされました。

「私はクリスチャンではありません。しかし、聖書には興味があり、グループの仲間と聖書を読んでいます。そのように聖書に惹かれているのですが、信仰の世界には今一歩踏み出せないでいます。その一番の理由は、現在の不条理で矛盾だらけの世界を思う時、本当に神はおられるのだろうか?神は何故このような世界を造られたのだろうか?と思うからです。このことについてどう考えればいいですか?」

私はその婦人に対してこのように答えました。

「神様が何故、このような世界にされているのか、という質問について、私にはとても答えられません。

私たちの思いを遥かに超えた神様の深い御旨があるのだろうと思います。ただ、一方で思うことがあります。このことは、質問の答えとはならないかも知れませんが、大切なこととして思うのは、私たちの目の前の世界が、どのような世界であったとしても、それでも神はおられるということには変わらないということです。

そして、この世界に、神は私たちに救いのしるしを示し続けているのです。」そのように、お話ししました。

そして、さらにこのように言いました。「まさに最初のクリスマスこそ、そのような状況だったのではないでしょうか。最初のクリスマスの舞台となった2000年前のユダヤの国は、不条理なことばかりの世界でした。

ローマ帝国が世界中を侵略、制圧し、世界中を支配下に置いていました。その強大な権力は世界を圧倒し、その頂点に立つローマ皇帝は自分こそ神だと宣言していきました。ユダヤの人々にしてみれば、もはや本当に神様などいるのだろうかと思ってしまう世界でした。しかし、そんな世界にあって、神が救いのしるしとして示されたのが、クリスマスの出来事でした。そして、東の国の博士たちは、神の救いのしるしを見出し、そのありかを求めて、旅に出ていったのです。ですから、信仰について考える時、私たちにとって大切な問いは、神はおられるのだろうかと問いよりも、むしろ、神は一体今、この世界のどこに救いのしるしを置かれているのだろうかということなのだと思います。私たちが、そのような視点を持つ時、私たちもかつての博士たちと同じように、今の世界にあって、神に出会うことができるのではないでしょうか。」

そのように説明させていただきました。

本日の御言葉を読みながら、改めて、そのことを思い出しました。

今も私たちの周りに、様々な心痛めること、不条理に思えることがあります。

そんな中、神は本当におられるんだろうかと思うようなことがあるかも知れません。

しかし、神はおられます。

そんな中、この時代、この世界のどこに、神は眼差しを向け、御業をなそうとしておられるのかということになお一層、心を向け、尋ね求めていけたらと思うのです。(鈴木牧人)

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