「恵みを無駄にしない」
Ⅰコリント15:9-11
パウロはもともと熱心なユダヤ教徒でした。その熱心さゆえにクリスチャンを憎み、迫害し、殺そうとまで考えていました。その様子が使徒言行録8章に記されています。しかし、ダマスコの途上でパウロはイエス・キリストに出会います。その経験を通して、自分がこれまでしてきたことが間違いだったということを知りました。それから、パウロは、サウロから名をパウロと改め、イエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒となっていったのです。本日の箇所は、そんな過去を振り返って、「わたしは、神の教会を迫害したのです」(15:9)と語っています。パウロはどういう思いでこのことをコリント教会の人たちに語ったのでしょう。自分がかつて神の教会を迫害していたということはコリント教会の人たちにも周知の事柄だったのだと思います。しかし、だからと言って、自分の口で語ることは簡単なことではなかったと思います。たとえば、パウロのことをよく思わない人たちは、このことでパウロをバッシングしたりしていました。彼らは、「パウロはもともと教会を迫害していたじゃないか。そんな奴が使徒なんて言えるのか」と言っていたのです。そのことを思う時、私は本日の箇所で「わたしは、神の教会を迫害したのですから」と語っている姿に、パウロってすごいなと思います。みんなも知っていることでしたし、隠したって仕方ないことだったのかも知れませんが、やはり実際に本人の口から語るということは勇気がいることなのではないでしょうか。パウロは何でこんなふうに語れたのでしょうか。色々なことが言えるかも知れません。しかし、何より思うのは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(15:10a)という言葉です。この思いが、パウロをこのようにさせていたのではないかと思うのです。かつて神の教会を迫害していた自分に復活のキリストは出会ってくださった…。誰が何と言おうと、キリストはわたしの罪を贖い、赦し、受け入れ、私を救いの道へと導いてくださっている…。その恵みによって、今日のわたしがある…。その思いがあるがゆえに、パウロは恐れることなく、このことさえもかけがえのない証として語ることができたのではないでしょうか。
パウロの言葉を読みながら、改めて、ここに信仰の世界の素晴らしさがあるのではないかと思いました。私たちが招かれている信仰の世界とは、何より、たとえ失敗したとしても、そこからもう一度歩み出すことができる世界です。今の時代というのは、間違うことだったり、失敗することを極端に恐れてしまう時代なんじゃないでしょうか。そんな中、たとえ失敗したとしても、それでも踏み出すことができるということは、私たちにとって、本当に大切な「福音」なのだと思います。ただ、私たちが信仰をもって、そのように言えるのは、イエス・キリストを見上げることができるからだということを忘れないでいたいと思います。イエス・キリストが私を赦してくださっているから、私のためにイエス・キリストが罪を贖ってくださったから、その恵みがあるから、私たちはそのように語ることができるのです。言い方を変えるなら、そのことがなければ、私たちはとてもそうは言えないのです。