本日のローズンゲンの御言葉です。
「わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。」詩篇51:15
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」1テモテ2:4
本日の箇所には、次のように記されています。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
本日の箇所を読みながら、「(神は)望んでおられます」との言葉が心に迫ってきました。
私たちは皆、「何かを望む」という経験をしたことがあるのだと思います。そのような時、望んだことが皆、思い通りになったということばかりではないと思います。物事が望んだとおりにいかなかったり、望んでいることとは全く違う方向に事柄が進んでいるように思えたり…。そんな経験をさせられることもあるのではないでしょうか。そういう時、どうでしょうか。望みが叶わず心痛めたり、がっかりさせられたり、「もう望むことを諦めてしまった方が楽なんじゃないか」と思ったり…。そういう思いにさせられることもあるのだと思います。
「何かを望む」ということはそういうことなんだろうと思います。「望む」ということは何よりワクワクさせられることなのだと思いますが、一方で、「望む」がゆえにたくさんのしんどい思いを通らされたり、相当のエネルギーが必要となる…。そういうことでもあるのだと思うのです。
聖書には「希望の忍耐」(Ⅰテサロニケ1:3)という言葉がありますが、まさに「何かを望む」ということは「忍耐する」ことと切り離せない事がらなのだと思います。
本日の「(神は)望んでおられます」との御言葉は、「他ならぬ神様御自身がそういう思いを通っておられる」ということなのではないかと思いました。私たち一人一人を思うがゆえに、私たちが救われることを望んでおられるがゆえに、心痛めたり、がっかりさせられたり、「もう諦めてしまうしかないんじゃないか」との葛藤に揺さぶられたり、そういう経験を何でもされながら、それでも私たちを思い続け、私たちが救われることを望み続けておられる…。
神様がくり返し、繰り返し、そういう思いを通っておられるということではないかと思いました。
そんなことを思いながら、私たちが福音宣教の働きに連なっていくということは、何より、この主の思いに連なっていくことなのではないかと思いました。
私たちにできることは本当に限られたことかも知れません。しかし、主の思いに連なりながら、祈りつつ、私たちに託された役割を果していこうとしていく…。その積み重ねが問われているのだと思うのです。(鈴木牧人)