「無駄ではないんだ」Ⅰコリント15:12-19

本日の箇所で、パウロはコリント教会の一部の人たちの声として、「死者の復活などない、と言っている」(15:12)人たちがいたことを語っています。それに対して、「そんな人たちがいるとは、どういうわけですか」(15:12)と訴えているのです。この言い方にパウロの何とも言えない歯がゆさがにじみ出ているのではないでしょうか。パウロにとって、イエス・キリストの十字架と復活は、何よりも大切なメッセージでした。にも関わらず、コリント教会の人たちの中に「死者の復活などない」などと言いだす人たちが出てきていたのです。パウロは本当に歯がゆい思いだったのだと思います。

本日の御言葉を読んで印象的に思うことがあります。言い方として、大変、ネガティブな言葉が繰り返されていることです。たとえば「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)と語り、「あなたがたの信仰はむなし」(15:17)いと語っています。そして、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(15:19)と語っているのです。もちろん、パウロがここで語ろうとしているのは、福音を信じることが無駄なんだということではありません。そうではなくて、もし私たちが死者の復活などないと主張し、イエス・キリストの復活など信じられないというなら、私たちが信じてきた信仰というのは、すべてが崩れてしまう…。一切に無駄になってしまう…。それほどに、私たちの信仰は、イエス・キリストの復活の出来事にかかっているんだと言われているのです。

本日のメッセージ題を「無駄ではないんだ」としました。私たち信仰者の歩みは、決して無駄ではありません。空しいことはありません。惨めではありません。何よりそのことを本日の御言葉を通して聞いていきたいと思います。そして、私たちがそのように言えるのは、私たちがイエス・キリストの十字架と復活を信じているからです。その信仰に立っているからです。そのメッセージを聞いていきたいと思うのです。

私たちがもし、自分自身の歩んでいる人生を、心から「無駄でない」と思えるとするなら、それは本当に素晴らしいことではないでしょうか。周りのことが色々うまくいっていて、自分のしていることにやりがいを持てて、充実しているなら、自然とそう思えるかも知れません。しかし、私たちの歩みは、必ずしもそういう時ばかりではありません。自分のしたいことばかりできるわけでもないのだと思います。そういう状況の中、ふと「自分は何をしているんだろう」と思ったり、一切のことが無駄なことや空しいことのように思えたりすることはないでしょうか。そういう状況に立たされて、なお、「そうじゃないんだ。自分がしていることは無駄じゃないんだ」と思えるとするなら、それは本当に励まされることなのだと思います。私たちは信仰を通して、そのような生き方に立つことができるのです。たとえ現状が厳しく、自分のしていることが無駄に思えたとしても、私たちは、その現実にイエス・キリストの十字架と復活に基づく希望を見上げます。その中で今の私たちの歩みも御手の中にあることを確認し、無駄では決してないことを受け止めていくのです。

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