「初穂の希望」

Ⅰコリント15:20-22

本日の箇所で、パウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)と語りました。イエス・キリストは十字架の上で死なれました。しかし、イエス・キリストの死は、死で終わることがありませんでした。イエス・キリストは死者の中から復活されたのです。そして、同じように亡くなって眠りについた人たちの初穂となられたのです。私たちは本日の御言葉から、私たちの信仰の大切な希望のメッセージを聞いていきたいと思います。しかし、そのメッセージを聞いていくにあたって注目したいのは、「初穂」という言葉です。私たちが見つめている希望は、あくまで「初穂」としての希望なのです。「初穂」というのは、文字通り、「一番最初に実りに至った穂」のことです。今はこの穂しか実っていないし、他の穂も実るかどうか分からないけれど、初穂の実りを見て、いずれ、他の穂もこの初穂と同じように実るんだ…。そうに違いないんだと確信すること…。それが「初穂」としての希望なのだと思います。

私はこの「初穂」としての希望ということについて考える時、思い出すことがあります。それは2011年の東日本大震災のことです。震災直後、私は福島の郡山で原発事故に振り回されながら、明日がどうなるか分からないような毎日を過ごしていました。その中で、忘れられない出来事が、2011年4月24日のイースターです。震災から1ケ月ちょっと経った頃、イースターの礼拝で一人の青年がバプテスマを受けることになりました。その日のバプテスマは私たちにとって本当に励まされる出来事でした。ちょうど、その頃、教会前の公園の桜が満開になっていました。周りの景色は未だ、冬景色で、桜の花だけが色鮮やかに見えました。その様子が余りにきれいだったのでスケッチし、その年の教会の週報の表紙に載せました。スケッチの下には、「2011年春 それでも桜は咲きました」という言葉を書きました。2011年度は一年間、その絵を週報の表紙としたのですが、その絵は、私にとって希望の象徴でした。震災を通して、原発事故を通して、私たちが暮らしていた福島の景色は一変しました。しかし、そのような状況の中で、それでも目の前の公園の桜は咲いている…。その桜を見る時、周りは、とても春とは呼べないような状況があるけれど、それでも必ず春はやって来る…。この状況を必ずや神様は取り扱ってくださる…。そう思ったのです。

私にとって、あのイースターの光景、そして、あの桜の光景というのは、まさに「初穂」の希望でした。周りは、未だ実りには至っていませんが、目の前に確かに起こされている神様の御業を見つめながら、初穂としての励ましと希望を見つめていく…。そのような思いでした。私たちにはこの希望が与えられています。私たちはイエス・キリストの復活を「初穂」の希望として見つめていくのです。冬枯れの景色の中、たった一本咲いている満開の桜に、春の訪れを確信するように、周りの状況がどうであれ、復活の希望を見つめていくのです。

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