「神様のプロセス」

Ⅰコリント15:23-28

本日の御言葉には「終わりの時」についてのメッセージが記されています。「終わりの時」と言いますと、一般のイメージでは、人々の不安を駆り立てたり、危機感をあおりたてるような怖いイメージで受け取られることが多いかも知れません。しかし、聖書においての「終わりの時」とは、何より希望の時です。世の終わりの時、イエス・キリストが私たちのもとに再び、来て、御国を完成してくださる・・・。それが「世の終わり」の希望です。そのことを心に刻んでいたいと思います。ただ、本日の箇所でもう一つ覚えていたいことがあります。15:23には「一人一人にそれぞれ順序があります」と書かれています。神様が終わりの時、その救いを成し遂げるにあたって、一つ一つ順序があるんだということを覚えていたいと思うのです。神様がなさる終わりの時には、順序がある…。プロセスがあるのです。

私たちは何かしら、物事が完成するプロセスに携わったりしたことがあるでしょうか。たとえば、「料理が作られるプロセス」というものがあるのだと思います。毎食の料理が作られるためにはその背後に様々なプロセスがあります。そのプロセスを知ることもなく、料理が出てくるのをただ待っているだけとするなら、料理が出てこないことに対して「遅いな」と苛立ったりすることがあるかも知れません。しかし、実際に料理が作られるプロセスに携わるなら、多少、作るのに時間がかかったとしても、「遅いな」とは思わないのだと思います。むしろ、手間暇がかかればかかるほど、その料理に対して思い入れや愛着が込められ、出来上がった料理をより美味しく感じることもあるのではないでしょうか。

物事が完成するプロセスに携わるということはそういうことだと思います。そのプロセスに関わるからこそ、見えてくることがあるのです。そして、そこで見えてくるものは本当に尊いもので、そのプロセスを知ったからこその思い入れや感動があるのです。

神様の救いの御業にも、そのようなプロセスがあります。一つ一つの事柄に、その都度、神様の御心にかなったプロセスがあり、時にかなった取り扱いがあるのです。神様は、世の終わりの時にむかって、現在もそうした壮大な救いのプロセスをなしておられます。私たちはその救いのプロセスの過程に生かされているのです。一方、私たちの身近な場所においても、神様の救いのプロセスを見ていくことができるのだとも思います。今回、私たちの教会では、数名の方がバプテスマを受けるための準備をしています。この数名の方々のことを思っても思うのです。今回、こうしてバプテスマを受けるにあたって、ここに至るまでどれほどの神様の取り扱いがあったのか…。そこに神様の救いのプロセスというものをひしひしと感じるのです。そんな中、つくづく思うのは、そのような神様の救いのプロセスを知り、その一端にでも関わることができるということは、本当に光栄なことだな、嬉しいことだなということです。どんなことでも、何かのプロセスに関われることができることは嬉しいことですが、特に神様の救いのプロセスに関われることは特別な喜びです。そこにはまさに「終わりの時」の希望に通じる喜びや感動があるのです。

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