本日のローズンゲンの御言葉です。
「水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」イザヤ11:9
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」コロサイ1:19-20
7月19日は九州バプテスト神学校のスクーリングに参加してきました。スクーリングでは、現在、牧師・主事コースで学んでおられる方と一緒に学びをしてきました。その中で、こんなやり取りがありました。一人の学生さんが、聖書に書かれたイエス様の愛について調べたいと話してきたのです。四つの福音書に記されているイエス様のエピソードの中から、イエス様がなされた愛について考えていきたいと話していました。福音書には、イエス様がなされた様々な業が記されています。たとえば、イエス様が人々を見て、憐れまれたり、病んでいる人たちのところに近づいていかれたり、その病に触れられたり…。そのような一つ一つのことを調べて、イエス様がなされた愛について考えていきたいと話していました。
すると、それについて、一人の牧師が、このように話していました。
「イエス様のなされた愛って、そういうことだけかな。たとえば、イエス様は宮きよめなんかをなされたし、ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちと論争もなされた。その記事というのは、一見すると、『優しくて愛に溢れたイエス様』というイメージというより、『厳しいお方』というイメージの方が強いかも知れない。けれども、イエス様があのように毅然とした態度で、振る舞い、間違っていることに対して、『それは間違っている』ということで、実は守られたり、救われたりしていた人がいたんだ。当時、神殿から入ることができなかった人もいたし、ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちから差別されたり、辛い思いをしていた人たちがいた。そんな彼らにとって、イエス様がされたことは他ならぬ『愛の行為』でもあったんだと思う。だから、あまりイエス様のなされた行為を限定した形で、『これがイエス様のなされた愛だ』とみなすことがないようにしてほしい。むしろ、イエス様がなされた一つ一つの業から、その業の中に秘められた愛のメッセージを私たちが聞き取っていくことが大事だと思うよ。」
そのような話をされていました。その他にも色々な話し合いがなされましたが、有意義な学びの時となりました。本日の箇所には、次のように記されています。
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」
本日の箇所を読みながら、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」という言葉が心に残りました。父なる神は、御子イエスの内に、ご自身の御心を、その御心から満ちあふれるものを、余すところなく宿らせました。その満ちあふれるものとは、他ならぬ愛だったのだと思います。そして、その満ちあふれる神の愛の中で、十字架はなされ、その血によって、私たちは神と和解し、平和を打ち立てられたのです。改めて、その神を見上げていきたいと思いました。(鈴木牧人)