「蒔かなければ分からない」

Ⅰコリント15:35-49

本日の箇所には「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」(15:35)と書かれています。このような言い方をするということは、実際にこういうことを訴えていた人がいたということだと思います。そして、そのように訴えていた人たちは、基本、復活を信じていなかったのだとも思います。本日の箇所を読みながら、思い出す聖書の箇所があります。マタイ22:23-28です。ここにはサドカイ派の人たちがイエス様に質問をしてきた記事が記されています。サドカイ派の人たちは、常日頃から「復活などない」と主張していました。そんな彼らがある時、イエス様に質問をしてきたのです。それが「色々な人と結婚した女性が復活したら、その人は復活した時、いったい誰の妻になるんですか」という質問でした。サドカイ派の人たちは「復活なんてナンセンスだ」ということを主張したがためにこのようなことを訴えたのでした。そんなサドカイ派の人たちは本日の箇所で「復活が本当ならどんな体で来るのか」と訴えている人たちと重なってくるのではないでしょうか。イエス様はサドカイ派の人たちに対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」(マタイ22:29)と語りました。この言葉も本日のパウロの「愚かな人だ」(15:36)という言葉と重なってくるのではないでしょうか。

何というのでしょう。本日の箇所のやり取りや、イエス様とサドカイ派の人たちとのやり取りを見ながら思うことがあります。復活を疑い、信じようとしていない彼らというのは、「自分たちには物事が分かっている」という自負があったのではないでしょうか。サドカイ派の人たちというのは、当時の知識人でした。ですから、自分たちには物事がよく分かっているという自負があったのだと思います。それゆえ、復活なんてナンセンスだ…。信じられないという思いだったのだと思うのです。しかし、そんなサドカイ派の人たちに対して、イエス様が言われたのは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」という言葉です。本日の箇所でもパウロは「愚かな人だ」と語るのです。このやり取りに本当に皮肉だなと思ってしまいます。「自分たちは物事が分かっている」と主張している人たちに対して、「あなたたちは肝心なことが分かっていない、愚かな人だ」と語っているのです。このやり取りを見ながら、私自身、問われているように思いました。私も色々なことが分かっているような気になっていながら、実際は肝心なことが分かっていない…。そういうことがあるんじゃないかと思います。実際、そんなふうに分かった気になりながら、肝心な部分で思い違いをし、失敗をしてきたことがしばしばあったように思います。

パウロが「愚かな人だ」と呼びかけながら、さらに語ったのが、植物の種のたとえでした。一粒の種が蒔かれれば、種が大地に根を降ろし成長していく過程で、元の状態とは全く違う形になっていく…。同様に私たちの今の体と、復活の命に与かる体とでは全く違うんだと語ったのです。この言葉から、改めて、信仰の世界は「蒔いてみなければ分からない」世界なんだと思いました。信仰には、信じて具体的に蒔く時、初めて知る祝福があるのです。

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