「着ることの恵み」

Ⅰコリント15:50-55

本日の箇所には「朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」(15:53)と書かれています。この「着る」という言葉は、私たちが神様の救いをイメージする上で、とても大切な言葉なのだと思います。私たちはどこまで行っても朽ちるべきものなのですが、朽ちないものを「着る」ことによって救われるのです。

以前、こんなことがありました。神学生時代にある教会に研修に出かけました。その教会で一人の壮年の方に出会いました。その方は、すでに90歳を越えておられ、20歳くらいから教会を献身的に支えてこられていました。にも関わらず、本当に謙遜な方でした。その方が私にこんなことをおっしゃったのです。「私はバプテスマを受けて、もう半世紀以上経ちますが、信仰生活を続ければ続けるほど、自分の罪が見えてくるんです。最近は死ぬ前にもう一度バプテスマを受けなければいけないんじゃないかと思っています。」その方は教会員の皆に尊敬されていました。にも関わらず、その方自身は、自分をそんなふうに思っていたのです。私は、その方の言葉を聞きながら、その方の謙遜さを痛感しました。自分自身に砕かれ、謙遜に向き合っているからこそ、誰よりも自分の足りないところだったり、罪というものが見えているんじゃないかと思ったのです。その姿に「すごいな」と思いました。しかしながら、「もう一度、バプテスマを受けなければならない」ということに関しては「違うんじゃないか」と思いました。ですから、こんな話をしました。

「聖書には救いを『着る』というイメージで語っています。私たちは救いを信仰でもって『着る』んです。私たちは自分の未熟さや足りなさや罪というものを自覚しながら、そんなふうに本来、裁かれ、朽ちなければならないような私たちがそのまま神様の完全に救いに覆われていくんだ、その救いを着ていくんだということを信じるんです。ですから、私たちは自分の罪を自覚しつつも、そんな私たちの足りなさも、罪も、全部、神様がすでにご存じだと信じて、神様に身を明け渡していけたらと思います。」

私がそのような話をしたところ、その方はニッコリ笑って、「そうですね」とおっしゃっていました。本日の御言葉を読む時に思い出す出来事です。そして、このことはとても大切なことだと思います。私たちは、自分たちを絶対化して、自分を絶対的に聖いとか、正しいとは思ってはいけないと思います。言い方を変えるなら、私たちは自分たちの足りなさや欠けた部分をいつも自覚したいと思うのです。ただ、そういう欠けだらけ、問題だらけの自分たちだけを見てしまうと落ち込んでしまうかも知れません。その中で忘れてはならないことがあるのだと思います。それは、こんな欠けだらけの私でさえ、主は受け入れてくださって、こんな私たちをもキリストの教会とみなしてくださっているんだということです。そして、その主が私たちを一方的な救いで覆ってくださるということです。そのことを信じつつ、私たちなりの精一杯な思いで、聖書がさし示すキリストの教会を建て上げようと試みていく…。それが私たちの大切にしたい信仰の在り方なのだと思うのです。

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