「死のとげ、罪の力」
Ⅰコリント15:56-57
パウロは、本日の箇所で、罪について「死のとげ」という言い方をしています。本日は、このことについて考えてみたいと思います。
小さい頃、学校の花壇のバラがきれいで、触ったら、トゲが刺さってしまったことがあります。「痛い」と思って、トゲを抜こうとしたのですが、うまく抜けず、先っぽの方だけ刺さったまま残ってしまいました。しかもその時、刺さったままであることに気づいてもいませんでした。「トゲは取れた」と思い、そのまま友だちと遊んでいたのですが、一向に痛みが止みません。最初は我慢していたのですが、何とも言えない違和感があります。落ち着いてくると、多少痛みが治まることもあるのですが、トゲが刺さったあたりに触れてみると、再び、痛みがぶり返します。さすがに「おかしい」と思い、保健室の先生に相談をしたところ、「それはトゲがささったままだね」と言われ、取ってもらいました。ようやく痛みが無くなりました。「トゲが刺さる」という時、その時のことを思い出します。そして、その時の経験から思うのは、刺さっているトゲは、たとえ小さくても、トゲが一度、刺さると、そこには何とも言えない違和感があり、痛みがあり、小さなトゲ一つで辺り全体が痛むんだなということでした。その痛みのもとがどこにあるのか、原因や理由が分からなくなってしまうこともあります。とにかく我慢して、そっとしておこうとしてしまうこともあります。しかし、その辺りに触れると、やっぱり痛い…。「トゲが刺さる」って、そういうことなんだと思うのです。そして、それというのは、体のことだけではないのだと思います。心にも刺さるトゲがあるのです。本日の箇所で、パウロが語る「死のとげ」としての罪もそういうことなのではないでしょうか。罪というものは、私たちをトゲのように傷つけます。私たちが罪を犯す時、その罪によって私たちは誰かを傷つけているということがあるのだと思います。一方、罪を犯した本人も、気づかないところで自分の中にトゲを抱えているということがあるのだと思います。いずれにしても、罪によって、人は「死のトゲ」を心に抱えるのです。そして、そのトゲの痛みというのは、あからさまに見える形での痛みや傷となるばかりではないかも知れません。先ほどのトゲの話のように、小さなトゲが心の中に入り込んでいくということがあるかも知れないと思います。表面的には見えなくなっている…。そういうこともあるかも知れません。しかし、死のトゲとしての罪は、罪のトゲは、その人の内に奥深く入り込んでいて、その人を苦しめている…。そういうことがあるのです。
私たちは、その死のトゲとしての罪を心に抱えながら、それを取り除くことができずに苦しんでいることがあります。律法を通して、それを取り除こうとしたりするのですが、逆にそうすることで、罪の力をまざまざと知らされ、さらに苦しむことがあるのです。そんな中、パウロは、私たちの心に潜む「死のとげ」から解放するのは、ただただ、主イエス・キリストによってなんだと語っているのです。私たちは、ただただ、主イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、罪赦され、癒され、解放されていくのです。