「動かされないように」
Ⅰコリント15:58
本日の箇所を読みながら「動かされないようにしっかり立ち」との言葉が心に迫ってきました。今の時代、ともすると、周りの色々な情報を聞くたびに、自分がどこに立つべきか分からなくなったり、翻弄され、流されてしまいそうになることがあります。そんな中、私たちが立つべきところにしっかりと立って、動かされないようにするということは本当に問われていることなんじゃないかと思うのです。
「動かされないようにしっかり立つ」ということは、「何もしないでそこにいる」ということではないと思います。本日の箇所には、「動かされないようにしっかり立つ」ということに関連して、「主の業に常に励みなさい」と書かれています。この二つは深く繋がっているのではないでしょうか。「動かされないようにしっかり立つ」とは何もしないで、そこにずっと立っていることではないのです。私たちはそこで主の業に励むのです。そうすることで、私たちは動かされようにしっかり立つことができるのではないでしょうか。
このこととは、たとえば「平和」について考える時にも同じだと思います。平和は単に「何も争いが起こらないようにする」ということではないのだと思うのです。キング牧師の言葉に、このような言葉があります。「最終的に私たちの心に残るのは、敵の言葉ではない。友の沈黙だ。」平和というのは、何も、波風が立たないようにするということではありません。波風というのは、人が集まれば起こるものです。それは致し方ないことなのだと思います。そんな中、私たちが心に刻んでいたいことは、問題を起こること自体が問題なのではなく、むしろ、問題が起こった後、どうするかということなのです。問題を知りながら、それは良くないことも分かっていながら、黙ったまま、傍観してしまうことこそ、本当の問題なのではないでしょうか。時に、目の前の問題に対して、「それは問題だよ」と声を挙げることが必要かも知れません。あるいは、何より、その問題で傷ついている人がいるなら、その人に寄り添っていこうとすることが大事なのだと思います。そのようにしていく中で、本当の平和というものは築き上げられていくのではないでしょうか、そして、そうすることで、私たちは揺るがされないところに立つことができるのではないかと思うのです。
加えて、「主に結ばれているならば」という言葉にも注目したいと思います。私たちは、動かされないようにしっかり立つために、何よりしっかりと主に結ばれていく必要があります。このことも平和ということを考える上で大切なことだと思います。キング牧師は「人は互いに恐れるために憎み合う。互いに恐れるのは知らないからである。知らないのは話をしないからである。話をしないのは分かれているからである。」と語りました。人というのは、互いに対話もせず、具体的に繋がっていない時、本当に関係が不安定なものになってしまうのです。私たちが互いに動かされないようにしっかり立つためには、何より、神様と具体的な交わりを持つと同時に、目の前の一人一人ともきちんと対話することが必要です。そうすることで、互いに一つのところにしっかりと立つことができるのだと思います。