「なぜこんなことをしてくれたのでしょうか」
ルカ2:41-52
本日の箇所には、少年時代のイエス様の様子が記されています。ある時、少年だったイエス様はマリアとヨセフに連れられて、エルサレムに出かけました。しかし、旅の帰り道、イエス様がいないということに気づきます。マリアとヨセフは心配してイエス様を探しました。そして、3日後にようやく、エルサレムの神殿にいるイエス様を発見したのです。マリアはイエス様のもとに駆けつけました。そして、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(2:48)と言いました。しかし、これに対し、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2:49)と語ったのです。この言葉にマリアやヨセフは、さらに戸惑ってしまったのではないかと思います。
本日、この聖書箇所を読みながら、メッセージ題を「なぜこんなことをしてくれたのでしょうか」としました。このメッセージ題は2:48に記されているマリア自身の言葉から取ったのですが、この言葉にマリアの気持ちが表れているのではないかと思います。そんなマリアの思いは、よく分かりますし、私も同じ立場だったら、同じように思うと思います。
本日の箇所で、マリアとヨセフは、イエス様のことで、ハラハラドキドキしっぱなしでした。しかし、そのようなハラハラドキドキや戸惑いというのは、この時だけはなかったんだろうなと思います。この時から十数年後、イエス様はいよいよ、公の福音宣教の働きに出ていかれます。すると、マリアは、再び、イエス様のなされることや、言われることが理解できず、戸惑ってしまう様子が記されているのです。たとえば、ヨハネ2章に記されている「カナの婚礼」の記述には、結婚式で葡萄酒が無くなったというトラブルの最中、マリアがイエス様に対してこの事態を何とかしてほしいとお願いをします。すると、これに対してイエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」(ヨハネ2:4)と語ったのでした。お母さんであるマリアに対して、このような言い方をし、マリアも戸惑ったのではないかと思います。こんなふうに福音宣教の最中、マリアは度々、イエス様のなさること、言われることが理解できず、戸惑ってしまうのです。これらの聖書の箇所から私たちはどんなメッセージを聞くことができるでしょう。色々なことが言えるかも知れません。しかし、一つ思うことがあります。それは、これらの一見、「何で」と思うようなことを通して、神様はマリアに大切なことを示そうとされていたんじゃないかということです。実際、本日の箇所には「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」(ルカ2:50)という言葉に続いて、「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(ルカ2:51)という記述があります。マリアはイエス様がおっしゃったことが分かりませんでしたが、心に納め、思い巡らせました。そんな中、やがて気づかされていったことがありました。それは、イエス様というお方が単に「自分の息子」ではなく、「キリスト」であるということでした。そのように思い巡らせる中で、イエス様との向き合い方が変えられていったのです。