「心は燃えていたではないか」

ルカによる福音書24:13-35

 本日の箇所は「エマオの途上」と呼ばれる箇所です。イエス様が十字架にかけられた後、イエス様の二人の弟子たちが暗い顔をして歩いていました。本日の御言葉を読みながら、改めて、二人の弟子の姿が心に迫ってきました。私たちもこの弟子たちのようになっていることはないでしょうか。今年一年を振り返ってもそう思います。嬉しいこともたくさんありました。しかし、色々な課題に向き合わされることもありました。思いも寄らないようなことが起こり、心を痛めたり、これから先、どうなってしまうかと思って、不安で一杯になったりすることもありました。そんな中、本日の箇所でうなだれ、暗い顔をしながら歩いているエマオの途上の弟子たちは時々の私たちの姿でもあるんじゃないかと思うのです。

 「エマオの途上」の記述は、うなだれ、暗い顔をして歩いていた弟子たちが、復活されたイエス様に出会い、再び、心燃やされ、自分たちが離れようとしていたエルサレムに、もう一度、立ち帰ったという記述です。この弟子たちの歩みというのは、私たちが今も繰り返している信仰の営みでもあるのではないでしょうか。私たちは今も時々に、信仰の歩みの中で「エマオの途上」の弟子たちのように、うなだれ、暗い顔をして歩んでしまっているようなことがあります。しかし、そんな私たちが主の取り扱いの中で、再び、心に燃やされ、いつの間にか迷い込んでしまっていた自分の思いを取り戻しながら、立ち帰るべきところに立ち帰らされていくということがあるのだと思うのです。

本日の箇所で、注目したい箇所があります。それは、イエス様が弟子たちに対し、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:25)という記述です。ここで言われている「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体」というのは、弟子たちにしてみれば「すでに知っていた話」だったのではないでしょうか。しかし、そんなふうにこれまで幾度となく聞いてきた聖書の話を、イエス様はあえてされているのです。弟子たちはどんな顔で聞いていたでしょう。そんなこと分かっている…。初めはそういう表情だったかも知れません。しかし、イエス様は、これら「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体」を通して、今彼らが経験している十字架の出来事の意味を説明されたのでした。「これら聖書の中に、実はすでに十字架の出来事は語られているんだ」ということを説明されたのです。イエス様の話を聞くうちに、弟子たちはこれまで聞いてきたはずの話が、これまでとは全く違った形で響いてきました。同じ聖書の言葉が、全く新しい言葉、新しいメッセージとして響いてきたのです。私たちも同じかも知れません。私たちが日々向き合わされている様々な問題に対して、イエス様は今も御言葉を通して語りかけているのではないでしょうか。そんなことすでに知っている…。そんなふうに思っているような私たちがいるかも知れません。しかし、今だからこそ聞こえる聖書からの語りかけがあるのだと思います。いずれにしても、二人の弟子たちの歩みの再出発は、聖書に聞き直していくというところから始まっていったのです。

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