本日のローズンゲンの御言葉です。

「わたしはあなたたちが奴隷にされていたエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの軛を打ち砕き、あなたたちがまっすぐに立って歩けるようにした。」レビ26:13

「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」ガラテヤ5:1

私が神学生時代のことです。旧約学の先生がこんな話をなさっていました。

「旧約聖書には、出エジプトの出来事が記されている。イスラエルの民が、エジプトで奴隷生活をしている中、そこから解放され、カナンの地で神の民として歩み出していくという出来事である。この出エジプトの出来事について、ぜひ考えてほしいことがある。それは『何で、イスラエルの民がカナンの地に向かうのに40年の歳月がかかったのか』ということである。本来であるなら、2週間ほどでたどり着くはずの距離である。

それなのに、40年もの年月がかかっている。何で、これほどの年月がかかってしまったのだろうか。」

そのようなお話をされていました。皆さんはどのように考えるでしょうか。その先生は、続けてこのようにおっしゃっていました。

「このことについて、色々なことが言えるかも知れない。ただ考えてみたい。もし、イスラエルの民がエジプトを脱出して、そのまますぐにカナンの地にたどり着いたとして、彼らはカナンの地で神の民として歩むことができただろうか。彼らはそれまで長らくエジプトで奴隷生活をしていた。自由な民として、自分の意思や考えで物事を決めたり、選び取ったりすることができなかった。そんな彼らがカナンの地でいきなり神の民として歩み始めることになったとして、きちんと成熟した神の民として歩むことができただろうか。カナンの地で新しい歩みを始めたはいいけれど、どうしたらいいか分からずに、結局エジプト時代の生活に舞い戻ってしまったんじゃないだろうか。そのようなことを思う時、荒れ野の40年間は、イスラエルの民にとって、本当に重要な年月だったのだと思う。この年月の中で、彼らは色々な思いを通らされた。迷うこともあったし、悩むこともあった。失敗もたくさんした。しかし、そのような中で、神様との対話をくり返しながら、神との出会いをたくさんしてきた。それらの経験を通して、自分の中の信仰の言葉を育みながら、奴隷の民から、自由な神の民として整えられていったのだと思う。それがカナンの地での生活のための備えとなっていったのだと思う。」

その話を聞いて、私は色々な思いにさせられました。正直、それまで、イスラエルの民が荒れ野を40年旅したことは、「イスラエルの民が神様に罪を犯した罰」とだけしか考えていなかったので、「彼ら自身にとって必要な時でもあったんだ」というメッセージは、新鮮なメッセージでした。本日の箇所には、次のように記されています。

「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

本日の箇所を読みながら、旧約学の先生の言葉を思い出しました。そんな中、「奴隷の軛に二度とつながれないようにするためには、何が大事なんだろう」ということを思わされました。それは、イスラエルの民が荒れ野の40年の旅で経験したように、迷いながら、悩みながら、失敗もしながら、神様との対話や出会いをしていくことではないかと思います。そんな中、自分自身の信仰の言葉を育んでいく時、私たちは周りの言葉に流されたり、縛られることなく、自分の考えや意思で、大切なものを選び取っていくことができるのではないかと思うのです。日々、色々なことがあり、悩んだり、迷ったりしてばかりの私たちがいますが、その中で神様とたくさん対話していきたいと思いますし、出会っていくことができたらと思います。 そんな中、 この時代にあって、大切なものを一つ一つ選びとっていくことができたらと思いました。      (鈴木牧人)

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