「神の身分でありながら」
フィリピ2:5-7a
「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(2:5-7a)
本日の箇所から始まって2:11までを「キリスト讃歌」と言います。この「キリスト讃歌」は、初代教会の時代のクリスチャンたちがイエス・キリストを讃美するために語り継いだ言葉だと言われています。その冒頭の箇所が本日の御言葉です。ここで言われていることは、キリストは、本来、神様であって、私たちからほど遠いところにおられた方であったにも関わらず、そのことにこだわろうとはされず、自分を空しくしてまで、僕の身分となり、私たち人間と同じ者になられたということです。
本日の御言葉を読みながら、一つ思い浮かべることがあります。イスラエルのナザレに受胎告知教会という名前の教会があります。その教会の二階に行きますと礼拝堂があり、周りの壁には、世界各国から送られてきたという聖母子像が飾られています。韓国から送られてきた聖母子像は、韓国の民族衣装であるチマチョゴリを着ています。シンガポールの聖母子像は、おそらくマレー系の顔でしょうか、そのようなイエス様、マリアの絵が描かれていて、周りには様々な人種の子どもたちが集っています。日本の絵は純和風のお母さんと子どもの絵が描かれていました。そのように各国、それぞれ自分たちの国の人として、イエス様とマリアが描かれていたのです。それらの絵を見ながら思ったのは、本日の箇所に書かれている「キリストは私たちと同じ者になられたんだ」というメッセージでした。イエス様は決してアジア人でもありませんでした。ですから、正確なことを言うなら、イエス様がアジア人として描かれることは厳密な意味では違うのだと思います。ですが、その絵に込められている世界中の人たちの思いを考える時、とても大事なことを教えられるのではないでしょうか。イエス様は、私たちそれぞれにとって、遠い外国の人で、遠い存在なんかではなく、私たちと同じ者なんだという思いが、それらの絵には表わされているのだと思うのです。そして、そのことは間違いではありません。たとえ表現方法として独特でユニークであったとしても、そこには意味合いとして大切な真理が現されているのだと思うのです。
私たちは、ぜひ、このことを噛みしめていきたいと思います。イエス・キリストは、私に出会うために、近づくために、私と同じ者となられたんだ…。それが初代教会の人たちが「キリスト讃歌」で一番最初に賛美として歌った言葉でした。神のひとり子であられるイエス様が、そんなふうに私たちのところに来てくださったということを、身をもって経験し、その恵みを噛みしめた時、初代教会の人たちは讃美せずにいられなかったのです。また、現在も、世界中の人たちがそのことを喜び、感謝しています。その一つの表れとして、アジア人としてのイエス様が描かれたり、黒人としてのイエス様が描かれている…。それらはすべて、イエス様が他ならぬ私たちと同じ者になられたんだという信仰の表明なのです。